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東宮(ひがしみや)遺跡 【八ッ場ダム関連】
平成29年1月
一分金形銅製品(いちぶきんがたどうせいひん)
江戸時代の金貨では大判、小判が知られていますが、より少額の二分金、一分金、二朱金、一朱金もあります。二分金2枚で1両、一分金は4枚で1両となります。一朱金は4枚で一分です。一分金は正式には一分判(いちぶばん)または一分判金(いちぶばんきん)ともいいます。ここに紹介する一分金形銅製品(写真1)は、長野原町東宮遺跡で天明3年(1783)の浅間山噴火に伴う泥流下から出土しました。
写真2は長野原町久々戸(くぐど)遺跡の天明3年の泥流下からから出土した一分金です。「金」という名のとおり、ひかり輝いています。それに対し、東宮遺跡から出土した一分金形は、銅の錆(さび)である緑青(ろくしょう)が吹いたような色をしています。両者の桐の文様がある表を比較すると、久々戸遺跡出土一分金では上段の桐文が扇形の枠で囲われ、桐文の間には右から左に「一分」の文字があります。一方、東宮遺跡出土品には扇形の枠がなく、「一分」の文字は左からに右に記されています。
裏面では久々戸遺跡出土品には「光次」という文字の下に花押がありますが、東宮出土品では「光」が「戎」(えびす)になっています。また「次」の字の偏(へん)が異なるなど、相違点が認められます。重さも、年代が近い元文一分金(1736年~1818年)が3.28gほどの重さなのに対して、東宮遺跡出土品は2.24gと軽いのです。銅は金より比重が軽いので、銅製(銅の合金)と考えられます。このように、一分金とは明らかな違いがありますので、東宮遺跡出土品は一分金や密造銭ではなく一分金の形をした銅製品、「一分金形銅製品」だと考えられます。しかし、「戎」の文字から信仰にかかわる銭形とも推測されますが、出土例がきわめて少なく用途は不明です。
江戸時代の金貨では大判、小判が知られていますが、より少額の二分金、一分金、二朱金、一朱金もあります。二分金2枚で1両、一分金は4枚で1両となります。一朱金は4枚で一分です。一分金は正式には一分判(いちぶばん)または一分判金(いちぶばんきん)ともいいます。ここに紹介する一分金形銅製品(写真1)は、長野原町東宮遺跡で天明3年(1783)の浅間山噴火に伴う泥流下から出土しました。
写真2は長野原町久々戸(くぐど)遺跡の天明3年の泥流下からから出土した一分金です。「金」という名のとおり、ひかり輝いています。それに対し、東宮遺跡から出土した一分金形は、銅の錆(さび)である緑青(ろくしょう)が吹いたような色をしています。両者の桐の文様がある表を比較すると、久々戸遺跡出土一分金では上段の桐文が扇形の枠で囲われ、桐文の間には右から左に「一分」の文字があります。一方、東宮遺跡出土品には扇形の枠がなく、「一分」の文字は左からに右に記されています。
裏面では久々戸遺跡出土品には「光次」という文字の下に花押がありますが、東宮出土品では「光」が「戎」(えびす)になっています。また「次」の字の偏(へん)が異なるなど、相違点が認められます。重さも、年代が近い元文一分金(1736年~1818年)が3.28gほどの重さなのに対して、東宮遺跡出土品は2.24gと軽いのです。銅は金より比重が軽いので、銅製(銅の合金)と考えられます。このように、一分金とは明らかな違いがありますので、東宮遺跡出土品は一分金や密造銭ではなく一分金の形をした銅製品、「一分金形銅製品」だと考えられます。しかし、「戎」の文字から信仰にかかわる銭形とも推測されますが、出土例がきわめて少なく用途は不明です。