よくある質問と回答
浅間山は江戸時代にも噴火したの?

天明3年の浅間山噴火と人々
鬼押出し溶岩

江戸時代、天明3年(1783年)に、浅間山が大噴火をおこしました。

上毛カルタにある「浅間のいたずら 鬼の押し出し」はこの噴火の時に流れ出た溶岩が生み出したものでした。

この噴火のようすは、当時の日記や代官所あての報告書などで詳しく知ることができます。

噴火と災害のようすを描いた絵図も残っています。

嬬恋村や長野原町では、この噴火におそわれた村の遺跡が発掘されています。

噴火が引き起こした洪水や、吹き出された軽石で埋まった田や畑の遺跡は渋川市や、遠く玉村町や旧尾島町でも見つかっています。

浅間山は、いつ噴火したのですか?

浅間山の火口
浅間山の火口

群馬県と長野県の間にある浅間山は現在も活動中の火山で、高さは2568m。よく知られている大きな噴火は江戸時代、平安時代、古墳時代、縄文時代などにありました。これらの噴火でふき出した火山灰や軽石は、群馬県内での発掘調査をおこなうときに時代を決める手がかりとして利用されています。

また、2万年以上前の噴火では、大規模な泥流(でいりゅう)が発生して前橋の市街地の下に15mもの厚さでつもっているというのですから、驚きますね。

写真は、釜山(かまやま)と呼ばれる現在の火口です。活動によって深くなったり、浅くなったりしていますが、火口の深さは100~300mといわれています。火口には監視カメラが設置されていて、長野原町営火山博物館や嬬恋郷土資料館で画像を見ることもできます。

「浅間のいたずら鬼の押出し」との関係は?

現在の浅間園のあたりに残されている溶岩が、「鬼押出し溶岩」と呼ばれるもので、江戸時代の天明3年(1783)の噴火のときに流れ出た溶岩です。上毛カルタの読み札の裏面には、「幅2km、長さ5kmにわたって流下した」と書かれていますね。

それでは、この浅間山の天明の噴火について、説明しておきます。

この噴火は、天明3年の5月~8月にかけての3ヶ月におよぶものでした。

まず、5月に最初の噴火があり、6月には各地に多くの火山灰を降らせました。7月には北側に軽石を降らせるなどの大きな噴火がありました。その間にも小さな噴火をはさみながら7月末から本格的な噴火活動が始まりました。8月2日には噴煙柱(ふんえんちゅう)と呼ばれる煙をあげながら噴火を開始、軽石は前橋や高崎がある東南東方向へ厚くつもりました。この大噴火は8月5日まで続きました。8月4日には吾妻火砕流が発生、北東側へ流れ下りました。北軽井沢の別荘地南部をおおっているのが、この火砕流です。

運命の8月5日、噴火とともに鎌原火砕流(かんばらかさいりゅう)が発生し、土石なだれとなってふもとの鎌原村をおそいました。その後、土石なだれは吾妻川に流れ込み、水とまざって泥流となりました。一方は利根川から太平洋へ、他方は江戸川から東京湾へと流れくだっていったのです。その途中、多くの人々をのみ込み、1400名以上の犠牲者(ぎせいしゃ)を出しました。そして、火口からこの鬼押出し溶岩が噴火の最後に流れ出たといわれています。

噴火の直接の被害は、長野県側から前橋や高崎方面にかけて降った大量の軽石による東北東方向でのもの、鎌原村をのみ込んだ土石なだれ、吾妻川や利根川を流れ下った泥流によるものの3つに分けられます。また、噴火がおさまってからも、その影響は大きく、天明の飢饉(ききん)に大きな追いうちをかけたといわれます。

噴火のとき、人々はどうしたのですか?

泥流に埋まった畑あと
泥流に埋まった畑あと

長野県の軽井沢では、8月3日に噴火が激しくなり、人々が避難した記録が残っています。また、参勤交代が中山道をさけて別のコースを通ったという記録なども残されています。

天明の浅間災害にあった地区では、当時の民家や水田、畑跡などが見つかっています。有名な鎌原村の発掘調査では、当時の村の様子を伝える資料や、土石なだれから逃げ遅れた人々の遺体などもみつかっています。江戸時代、山あいの農村では大変珍しい、ガラス製の鏡がみつかりました。当時、ガラス製の鏡は、大名などごく一部の人しか手に入れることができない貴重品で、江戸や京都・大坂でも手に入りにくいものだったそうです。

長野原町の長野原久々戸(くぐど)遺跡(写真)ではこのときの泥流に埋まった畑あとがみつかり、2cmくらいつもった軽石を作物の根元に土寄せした様子がみつかっています。人々は噴火のさなか、軽石が降ったあとにも耕作をやめることなく、農作業を進めていました。しかしながら、8月5日の泥流によって埋めつくされたのでした。

災害にあった人々はどうしたのですか?

発掘された石垣
発掘された石垣

軽石がたくさんつもってしまった地域では、軽石をよせて「灰かき山」とよばれる軽石の山をつくったり、「灰かき穴」とよばれる穴や溝をほってそこに軽石をうめて、今日まで耕作を続けてきました。泥流の被害をうけた場所でも、災害復旧(さいがいふっきゅう)にとりくみました。林下原Ⅱ遺跡の例をみてみましょう。

写真の石垣のうち上の部分は現在も畑の境として使われていた石づみで、泥流の被害直後に積まれたものです。その真下から天明3年当時の石垣が見つかりました。2m近くある厚さの泥流被害にあってから、もとの石垣の上に石をつみ上げたのですから、泥流に埋まってからも古い石垣の位置を確認しもとの地境(じざかい)を復旧させようと取り組んだようすが伝わってきます。

発掘調査では、記録には残されない一人ひとりの汗の結晶もよみがえってくるのです。伝えられている記録では、泥流の被害にあった村々に対して幕府の役人が群馬を訪れたのは大噴火から2週間後、正式に救済対策が決まったのは2カ月ほどあとのことです。災害にあった人々の生活をいち早く援助したのが、嬬恋村の黒岩長左衛門、干川小兵衛、東吾妻町の加部安左衛門、中之条町の町田延陵という人たちでした。困ったときには、できる人がお互いに手を差し伸べ、助け合おうとする世の中だったんですね。

犠牲にあった人たちの供養(くよう)も多くの場所でおこなわれました。吾妻川や利根川沿い、東京の江戸川沿いなどにも多くの供養碑や記念碑が残されています。

浅間山は、また噴火しないのですか?

よく聞かれる質問ですね。

平成7年には「浅間山火山防災マップ」がつくられ、関係する市町村で配られています。さらに防災意識を高めようと多くの関連市町村でも取り組んでいます。しかしながら、過去の噴火をみても、完全な防災予想をすることは難しいのです。

過去におこった歴史上の事実である噴火災害と、それに直面した人たちの様子を知ることで、万一のとき自分はどう行動したらよいかを考えておくことも大切です。遺跡からのメッセージは、そのときのヒントになるはずです。