よくある質問と回答
条里制ってなんだろう?
奈良時代に、日本の各地で土地の区画を整える事業が行われました。 水田を、同じ大きさの区画にそろえて管理しようという条里制という制度ができあがったのです。
群馬の遺跡で見つかる平安時代の水田は、古墳時代の水田とはずいぶん違った形をしています。
平安時代の水田は、整った四角形をしているものが多いので、条里制の土地区画と関係があるのだろうと考えられているのです。
条里制ってなんだろう?
奈良・平安時代には、日本全国で大きな土地の区画整備(くかくせいび)が行われました。今までの水田のあったところはもちろんですが、場所によっては家のあったところまで平らにして、新しい水田を作っています。この時期の水田は、古代の土地制度である、「条里制」(じょうりせい)に関係しているとされています。
条里制とは、古代の長さの単位である、1町(ちょう 約109m)四方の区画を1坪(つぼ)とし、坪を横に6個並べて1里(り)、縦に6個並べて1条(じょう)とした土地区画制度です。1坪の中はさらに10に分けられ、その小さな1区画は1段(たん)とされました。
この制度により、土地の正確な位置や面積が簡単にわかるようになりました。7世紀の後半(約1300年前)ころから、土地は国が6歳以上の男女に配分し、死ぬと没収する仕組み【班田収授(はんでんしゅうじゅ)の法】が始められました。条里制はこの仕組みにあった制度に見えますが、実際に行われたのは、50年以上も後になってからです。このころは、土地や人はすべて国のもので【公地公民(こうちこうみん)】個人で土地を所有することはできませんでしたが、8世紀後半ころから、大きな神社や寺、力のある貴族などが、自分の土地をもつようになってきました。そのため、国の土地と個人の土地を区別して管理する必要がでてきたので、条里制が使われるようになったとも考えられています。
古墳時代の水田とどう違うの?
上の2枚の写真は、上滝榎町北(かみたきえのきまちきた)遺跡の同じ場所の水田を撮ったものですが、左の写真が古墳時代の中頃(今から約1,400年前)で、右が、平安時代の終わり(今から約900年前)です。500年の間に、水田の形が大きく変わっているのがわかると思います。
古墳時代の水田は、大きなアゼや水路に囲まれた中を、一辺が1.5~4mの非常に小さい区画に区切って作られています。
平安時代の水田は、大きなアゼや水路で囲まれた中を、一辺が5~20mのやや大きな区画に区切って作られており、大きなアゼは、東西・南北を向いています。この時期の水田は、古代の土地制度である、「条里制」(じょうりせい)に関係しているとされています。大きなアゼの中の小さな区画は、きれいな長方形をしているのもありますが、形がくずれているものも多くあり、細かいところまで条里制にしたがっているわけではありません。