よくある質問と回答
国分寺ってどんなお寺?

群馬の国分寺と古代社会
国分寺復元図
国分寺復元図(群馬県教育委員会提供)

今から1250年ほど前、日本の各地に「国分寺」というお寺が建てられました。

そのころ、群馬県の地域は「上野国(こうずけのくに)」と呼ばれていたので群馬に建てられた国分寺は「上野国分寺(こうずけこくぶんじ)」といいます。

お坊さんのお寺(僧寺:そうじ)と、尼さんのお寺(尼寺:にじ)がセットで建てられました。

前橋市元総社町と高崎市東国分にまたがって僧寺と、すぐ近くに尼寺があります。僧寺には、りっぱな七重の塔が作られていたそうです。

国分寺ってどんなお寺?

今から約1250年昔。当時の都・奈良に大仏が作られたころ、日本全国に国分寺というお寺が作られました。

そのころの日本は60くらいの「国」に分かれていました。その国ごとに作られたお寺なので国分寺といいます。群馬県は「上野国(こうずけのくに)」と呼ばれていましたので、群馬の国分寺は上野国分寺と呼ばれます。国分寺には男のお坊さんの寺である「僧寺(そうじ)」と、女のお坊さんの寺である「尼寺(にじ)」があり、あわせて国分二寺ともいいます。

なぜ、国分寺が作られたのでしょう?

奈良時代は正倉院(しょうそういん)の宝物に代表されるように、華やかな天平文化が花開いた時代ですが、同時に大きな飢饉(ききん)や疫病(えきびょう)の大流行(天然痘がはやりました)があったり、九州で反乱が起きたりして、社会に不安が広がった時代でもありました。これらの不安から国を守るために作られたのが、奈良の大仏・東大寺と全国の国分寺なのです。つまり、仏教の力で国を守る=「鎮護国家(ちんごこっか)」のために作られたお寺なのです。聖武(しょうむ)天皇が国分寺を作る詔(みことのり)を出したのは、天平13年(西暦741年)のことでした。

上野国分寺はどこにあったのですか?

上野国分寺位置図
上野国分寺位置図

こうして作られた国分寺ですが、当時の国分寺の建物は日本全国で全てなくなってしまい、現在はその遺跡しか残っていません。上野国分寺も建物の柱を支える礎石(そせき)などが残っているだけです。

その上野国分寺の遺跡は高崎市東国分町 と前橋市との境付近にあります。西に僧寺、東に300メートルくらい離れて尼寺が並んで建っていました。現在はその中間を関越自動車道が通っています。

どういう建物が建っていたの?

上野国分僧寺の七重塔復元イラスト
上野国分僧寺の七重塔復元イラスト

国分寺には多くの建物が建てられていました。上の図は僧寺の復元図です。多くの建物があったことが分かりますが、これらの建物は築垣(ついがき)と呼ばれる、土で築いた塀で囲まれていました。この築垣の中が寺の中心部で、東西約220メートル、南北約235メートル あります。築垣には東西南北に門が開いていました。

南大門を入ると正面に中門があり、その奥に金堂(こんどう)があります。金堂は僧寺のちょうど中央にあり、中には仏像が安置されていました。中門から金堂には回廊(かいろう)という渡り廊下のような建物がのび、四角い広場を作っていました。そのさらに北側には、講堂、食堂(じきどう)、経蔵(きょうぞう)、鐘楼(しょうろう)、僧坊(そうぼう)などの建物があります。金堂の西南には、七重塔があります。七重塔は国分寺のシンボル的な建物で、高さが60 メートル以上もありました。

尼寺には七重塔はありませんが、僧寺と同じような多くの建物が建てられていました。

どういう建物が建っていたの?

国分寺はそれまで地方ではつくられたことのないような大寺院でしたので、その建設はスムーズには進まなかったようです。

国分寺がどのようにつくられたのかは、当時の建物が全く残っていないためにはっきりとは分かりませんが、遺跡に残る多くの瓦の破片からその一部を知ることができます。

みどり市笠懸町産の軒丸瓦・軒平瓦
みどり市笠懸町産の軒丸瓦・軒平瓦
藤岡市・吉井町付近産の軒丸瓦・軒平瓦
藤岡市・吉井町付近産の軒丸瓦・軒平瓦

国分寺が作られた頃、その建物の軒先(のきさき)は上のような文様をもった瓦がのせられていました。瓦の生産地は群馬県の各地で見つかっていますが、左の瓦はみどり市で、右の瓦は藤岡市・高崎市付近で作られたものです。このように国分寺から20~30キロも離れたところから、瓦が運ばれていました。国分寺の建物はどれも大きいので、何万枚という瓦が必要でした。それらがみな、人や牛馬の力によって運ばれてきたのです。一体どれだけの人々が動員されたのでしょうか。

もちろん寺を作るには、瓦の他、多くの木材や銅・鉄のような金属なども必要です。さらに、建物を建て、瓦をつくり、仏像を作るためには、それだけの技術をもった人達も必要です。それらはいずれも当時の先端技術、ハイテクでした。 このように国分寺をつくるためには、多くの人数と物資、先端技術が用いられたのです。国分寺の建設は、国の総力を挙げて行われた一大プロジェクトだったのです。

国分寺はいつごろなくなってしまったの?

このように苦労して作られた国分寺ですが、なくなってしまったのは意外と早かったようです。もともと民衆のために作られたものではなく、国を守るために作られたものなので、平安時代になって国の力が衰えてくると国分寺の修理もあまり行われなくなってしまいました。上野国分寺が作られてから250年ほどたった頃の記録が残っていますが、それには塔や金堂などの中心部はなんとか残っているものの、まわりの築垣や門などは既になくなっていると書かれています。わずかに残っていた建物もその後ほどなくして壊れてしまったようです。

今、国分寺はどうなっているの?

復元された国分寺の築垣
復元された国分寺の築垣

昭和55年(1980)から行われた発掘調査の成果にもとづいて、昭和63年から遺跡を整備する工事が始まりました。これにより、金堂と七重塔の基壇(きだん)(金堂には36個の礎石・七重塔には17個の礎石が並んでいました)や築垣の一部が復元されました。また、ガイダンス施設「上野国分寺館」も建設されているので、一度見学してみてください。