よくある質問と回答
群馬の米づくりは、いつごろはじまったの?
米作りは、日本ではじまったものではありません。
弥生時代の初めの頃(2,400年ほど前)に大陸から伝わってきた、と考えられています。
静岡県の登呂(とろ)遺跡や、佐賀県の菜畑(なばたけ)遺跡、福岡県の板付(いたづけ)遺跡などが、米作りをした、水田の遺跡として有名です。
群馬でも、高崎市の日高(ひだか)遺跡をはじめ、水田の遺跡がたくさん見つかっています。
群馬の弥生時代と米作りについて聞いてみました。
群馬の米づくりは、いつごろはじまったの?
米作りは日本で始まったのではなく、数千年前に中国大陸のどこかで始まりました。日本には2千数百年前頃伝わってきました。
日本で最初に発見された水田跡は、昭和22年に発掘調査された静岡県の登呂(とろ)遺跡があります。登呂遺跡では、矢板と呼ばれる板で囲まれた水田跡と、たて穴住居跡や掘立柱(ほったてばしら)建物の倉庫跡などが発見され、弥生時代中頃の村の様子が分かるようになりました。その後、全国各地で水田跡が発見されるようになりました。
九州地方北部の佐賀県菜畑(なばたけ)遺跡や福岡県板付(いたづけ)遺跡などで初期の水田跡や木製農具などが発見されました。また、寒いため弥生時代に米作りは行われていなかったと考えられていた東北地方の青森県垂柳(たれやなぎ)遺跡でも水田跡が見つかるなど、弥生時代に日本全国に米作りが急速に広まっていったことがわかりました。
群馬県では、昭和47年に関越自動車道の建設に伴う発掘調査で、高崎市の日高(ひだか)遺跡で4世紀代(古墳時代始め頃)に浅間山が噴火した(火山灰と遺跡参照)火山灰で埋もれた水田跡が発見されました。日高遺跡の水田は、周囲(台地又は微高地)より一段低く湿った場所(低地)に不規則な形に畦が作られていました。稲の植えられていた水田面には足跡などが発見されています。また、現在見つかっている県内で一番古い水田は、高崎市の並榎北(なみえきた)遺跡の弥生時代中頃の水田です。
お米はどこで、どのように作ったの?
お米が食べられるまでは、色々な作業を行います。どんな作業が必要か分かりますか。
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水田を作る場所を決める。水が貯めやすいやや湿った場所。
近くに湧き水や川があり、水の引きやすい場所。日当たりのよい場所。 - 水を貯めるため土地をならす。水を貯めるため畦を作る。(農作業用語:代掻き)
- 種をまく。稲を育て植える。(農作業用語:田植え)
- 水の管理をする。
- 雑草を抜く。(農作業用語:除草)
- 水を落とす。
- 稲を刈る。(農作業用語:稲刈り)
- 穂から実(米)を取る (農作業用語:脱穀)
- 薄皮を取る。(農作業用語:籾スリ)
以上のような作業を行い、半年後にやっと米が食べられます。
こうした作業は、弥生時代も今もほとんど変わらないと思います。
弥生時代の農具はどのようなものを使ったの?
現代の農具でも長い期間放置しておくとくさります。土器のように当時のまま残る物はまれです。自然の木などを使った農具はほとんどくさってしまい、鉄でもさびが出てくさっていきます。
ですから発掘調査で住居跡から農具が発見されることはほとんどありません。もし残るとしたら、水が湧いてくるような湿った場所に限られます。
県内で発見された農具も湿った場所で発見されています。
関越自動車道建設に伴う発掘調査で高崎市新保町にある新保(しんぽ)遺跡では、弥生時代前後の古い川の跡から大量の木で作られた農具が発見されました。形は、今の農具とほとんど同じなので何に使われた農具かすぐ分かりますが、ほとんど木で作られています。当時、鉄は貴重品であり、農作業用などの消耗品(しょうもうひん)として使われていなかったと考えられます。
当時の人は堅い木を選び、石斧(いしおの)などで木を切り出し、それを薄く加工していました。その作業も大変だったと想像できます。
- 農具の名称と使い方(土木用にも使われた)
- 鋤(すき)・・・土を掘る道具。
- 鍬(くわ)・・・浅い溝掘りやならしに使う。
- 又鍬(またくわ)・・・ 土を掘り起こす。二又、三又
- 広鍬(ひろくわ)・・・土をならす・除草作業?。
- エブリ・・・土をならす・除草作業?。刃の部分がギザギザ。
- 田舟(たぶね)・・・もの(稲)を運ぶ
- 杵(きね)・・・籾(もみ)を取る。餅つきのように、臼(うす)とセットで上下に落とす。
その他、地方により色々な道具があり、調べてみるとおもしろいかも。