歴史を紐解く

群馬の遺跡・出土品群馬の遺跡案内

中毛地区大室古墳群-前橋市西大室町 古墳時代-

南から前二子古墳、中二子古墳、後二子古墳、という
3つの大型前方後円墳ほか多くの古墳があります。
古くから調査された古墳群で、1878年には前二子古墳と後二子古墳の石室が開かれました。
この後、日本で初めて西洋の科学的な方法を用いて調査され、広く国内外にその存在が知られるようになりました。

見学案内

総合公園「大室公園」として現在整備が進められています。
昨年後二子古墳の整備が終わり、作られた当時に近い形で復元され公開されています。
公園の中にはいつでも入れますが、石室の中には日中しか入れません。
詳しくは前橋市の教育委員会文化財保護課に問い合わせてみましょう。
前橋駅からは日本中央バスに揺られておよそ1時間で大室公園に着きます。

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は遺跡の位置を表しています。
ここがポイント

この古墳が作られた6世紀には大和政権の力がこの地域にも届いていました。
この古墳に葬られた一族は、その中で100m前後の古墳を作り続けて来たのです。
このことは大きな力を持った豪族のいたことを物語っています。
また、この3つの古墳は古くから周辺の人たちに大事にされてきました。
その一つの理由に、「日本書紀」に書かれている豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)をはじめ、その子供たちの墓だという伝説があったからです。
▼前二子古墳
この古墳は1878年に発掘されたときの記録が文書で残っています。また1880年にはアーネスト・サトウというイギリスの外交官が発掘の話を聞きつけ調査に訪れています。彼は幕末来日し、討幕運動に大きな影響を与えた人物です。この調査の中で彼は画家を東京から連れて行き、精密な絵を描かせ、また石室内の赤い顔料のベンガラを持ち帰り、知人の科学者に化学分析を依頼しています。こういった調査の仕方はまだ当時日本では始められていませんでした。
▼中二子古墳
この古墳群内で最大の古墳です。この古墳は遠くから人が見ることを意識して作った古墳です。なぜかというと、遠くからみえるところには大きな石を使ってより立派にみえる工夫がされているのです。また、この古墳に使われた埴輪の一部は遠く藤岡の土が使われており、葬られた人物の影響を与えていた範囲も見えてきます。しかし、この古墳は人の葬られた場所は、まだ調査されていません。
▼後二子古墳
この古墳も1878年に発掘されています。この古墳からは親子の猿がついた円筒埴輪などが出土しています。また、石室に出入りするために、石室の前に0.9mの深さ、幅2m、長さ12mにわたって溝のように地面を掘り込んだ墓道があります。その両わきには当時のおまつりの跡が復元されています。

もっと知りたい!

前橋市西大室町・東大室町という赤城山南麓に国指定史跡の前方後円墳がまとまって存在しています。前二子、中二子、後二子、小二子古墳の4つが国指定の史跡になっていますが、全体では10以上の大小の古墳が点在しています。1991~1996年の調査で、前二子古墳と中二子古墳、後二子古墳と小二子古墳、内堀1号墳の2群に分かれた時期変遷が考えられています。
▼前二子古墳
1992年調査の結果、周堀と外周溝の2重の堀や溝、幅の広い堤で区画されていることが確認できました。兆域(ちょういき)の全長は148m、墳形の全長は94m、後円部径69m、前方部の幅が65m、高さ14mあります。墳丘は2段築成の前方後円墳で、上段墳丘には葺石がありました。また周囲には円筒埴輪が巡らされ、総数1340本が使われたと考えられています。床面敷石、扉石などには笠懸町天神山の凝灰岩が使われています。6世紀前半の古墳だと思われます。
▼中二子古墳
1993・1994年の調査で幅の広い2重の周堀の存在、墳丘と一部の中堤に葺石が用いられ、盾持人物埴輪が中堤上に密に設置されていたことが分かりました。この点で内容的にも前二子古墳、後二子古墳をしのぐことが分かりました。兆域の全長は170mであり、墳丘全長111m・前方部の幅79m、後円部径66m、高さ15mもあります。6世紀初頭に降った榛名山の火山灰が旧地表面にあることや、出土した埴輪や土器から古墳が造られたのは6世紀前半だと思われます。
▼後二子古墳
1991年調査で兆域は、全長106m・幅80m、墳丘85.0m・前方部幅59.5m・後円部径48.0m・墳丘の高さ11.1mの2段築成の前方後円墳で、盾形に全周する周堀をもつことが分かりました。前方部の北側から馬形埴輪に付けられた装飾部品が出土しました。この装飾部品は、大阪府四天王寺の宝物とされる人物がのる馬の装飾部品とそっくりなため、四天王寺の馬と同様の埴輪が存在したと考えられています。石室の前から多量の土器が出土しました。また、火を焚いた跡や小刀などが見つかり、葬儀の時使ったのではと思われています。6世紀中頃から後半にかけて造られた古墳だと思われます。

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