歴史を紐解く

群馬の遺跡・出土品群馬の遺跡案内

中毛地区元島名将軍塚古墳-高崎市元島名町 古墳時代-

高崎市東部の元島名町にある県内最大級の前方後方墳です。井野川の左岸にあたります。全長96m、後方部の幅51m、前方部の長さは40mあります。墳丘は2段に築かれていて、葺石(ふきいし)や埴輪はありません。4世紀後半から5世紀初頭ごろに築かれた古墳時代でもはじめの頃の古墳です。
前方部の頂上部分には島名神社があります。明治44(1911)年、この神社の拡張工事をした時に、後方部で粘土槨(ねんどかく)が発見されました。粘土槨内からは、人骨とともに鏡、石釧(いしくしろ:石で作られた腕輪)や工具などの鉄製品が出土しました。これらの副葬品は東京国立博物館に保管されています。
昭和48(1973)年に高崎市の史跡に指定されました。昭和55(1980)年には土地改良事業に伴う発掘調査が行われ、古墳を取り囲む溝の中から、底に穴のあいた壷などの土器がたくさん見つかりました。形や模様が、東海地方の壷とよく似ているものです。これらの土器は平成3(1991)年、市の重要文化財に指定され、高崎市教育委員会に保管されています。

見学案内
高崎インターチェンジから5分
バス
群馬中央バス(高崎駅-伊勢崎駅)慈眼寺裏下車 徒歩10分

県立高崎東高校から見て前橋長瀞線を挟んだ東側の高台が古墳です。
東側の水田内の農道から眺めると古墳の全景がよくわかります。

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は遺跡の位置を表しています。
ここがポイント

1)明治44年に発見された主体部(死者を納めた施設)の記録は、地元の郷土史家の関亀令氏が「考古学雑誌」に報告しています。
・主体部は後方部中心部で、墳頂から約7尺(2.1m)の深さにありました。長さ1.8m、高さ・幅とも60cmほどで、古墳の主軸方向と同じ向きでした。
・主体部の内壁の粘土面には、竹または葦(あし)を割いて組み合わせた網代(あじろ)目が残っていました。
・遺骸は頭が北向きでした。
2)昭和55年の調査では、後方部の周堀内から出土した多量の土器群が注目されます。本来は墳丘の上に並べられたものが転落したようです。
中でも二重口縁壺(にじゅうこうえんつぼ)と呼ばれる土器が特徴的です。壺の胴部上半には櫛歯(くしば)のような道具で描かれた平行線文や・波状文・刺突文が組み合わされた文様があります。焼いた後で底に大きな孔(あな)が開けられていることから、祭器として古墳に並べられたのでしょう。
出土した二重口縁壺は器形や文様の特徴から、東海地方の伊勢湾西岸とのつながりがあると考えられています。また、この時期に周辺の遺跡で東海地方の土器が多く出土することもあって、古墳に葬られた人を東海地方から本地域に移り住んできた集団のリーダーと考える説があります。

もっと知りたい!

元島名将軍塚の南東1.5kmほどの井野川右岸には、有名な綿貫観音山古墳があります。史跡公園として整備された大前方後円墳からは、長い年月を経て木々におおわれた古墳とはちがった、築造当時の古墳の姿がしのばれます。
また、観音山古墳の南1kmほどには県立歴史博物館があります。華やかな群馬の古墳文化が、様々な遺物や模型・パネルなどでわかりやすく展示されています。見学しながら元島名将軍塚古墳が造られたころの社会の様子を考えてみましょう。

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