歴史を紐解く

群馬の遺跡・出土品群馬の遺跡案内

東毛地区館林城遺跡(たてばやしじょういせき)-館林市城町 中世~近世-

館林城は群馬県を代表する城の一つです。城沼(じょうぬま)を利用しているのが特徴で、守りやすく攻めるのにも適したすぐれた城でした。また、城そのものだけでなく城下町まで堀や土塁(どるい:土手のようなもの)で包み込んでいました。
館林城は江戸時代の一時期を除いて、室町時代から江戸時代にかけての長い間使われていました。城主も赤井(あかい)氏、足利長尾(あしかが・ながお)氏、小田原北条(おだわら・ほうじょう)氏、榊原(さかきばら)氏、大給松平(おぎゅう・まつだいら)氏、徳川(とくがわ)氏、越智松平(おち・まつだいら)氏、太田(おおた)氏、越智松平氏、井上(いのうえ)氏、秋元(あきもと)氏と何回もかわりました。そして城もだんだん大きくなっていきましたが、特に榊原康正(さかきばらやすまさ)の時代には中世の城から石垣(いしがき)や天守閣(てんしゅかく)の近世の城へと改造されています。

見学案内
電車
東武伊勢崎線館林駅下車徒歩15分
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は遺跡の位置を表しています。
ここがポイント

さて館林城がいつ造られたかは、はっきりしません。館林城(立林城)が最初に記録に出てくるのは室町時代の文明(ぶんめい)3年(1471)のことで、城主として赤井文三と赤井文六の名前が見えます。しかしこのときの“立林城”が今の館林城だったかどうかは分かりません。
また「そのころの城主、赤井照光(あかいてるみつ)が、子ぎつねを助けたところお稲荷様(おいなりさま)の化身(けしん)の白きつねがあらわれ、尾をひいて城の配置を教えてくれた。照光はさっそく城を造って弘治(こうじ)2年(1556)城に入った」という伝説も残っていて、その伝説から館林城は尾曳城(おびきじょう)と名付けられ、尾曳神社(おびきじんじゃ)がまつられたとも伝えられています。
右上の図は江戸時代後期の館林城のようすを軍学の立場からえがいた、縄張り図(なわばりず)という図です。この図を使って館林城を見てみましょう。
館林城の始まりは八幡曲輪(4)(はちまんぐるわ)か、尾曳曲輪(5)(おびきくるわ)、だったろうと言われていますが、初めのころの館林城は、南側の本丸(1)や二の丸(2)などのある半島のところと、入り江をはさんだ北側の尾曳曲輪(おびきくるわ)、そして外曲輪(6)(そとぐるわ)までの東西600m、南北430mほどのものだったようです。
そのころの館林城のようすはよくわかっていませんが、江戸時代の城のような石垣と天守閣の城ではなく、土や木で造られた城だったことでしょう。そして外曲輪(7)をつつみ込む総曲輪(そうぐるわ)、さらに西側の城下町のところまで広がっていきました。
そして城下まで堀や土塁(どるい)で囲むようになったのは、戦国時代の終わりころ、北条氏規(ほうじょううじのり)の時代だったろうといわれています。総曲輪の北の加法師曲輪(8)(かぼうしぐるわ)は、館林城が最も栄えた徳川綱吉(とくがわつなよし)のころ広げられたものかも知れません。
綱吉のころの館林城は、東西約1.4キロメートル、南北約1キロメートル、城下も含めると東西約2.3キロメートル、南北約1.4キロメートルという巨大なものになっていました。
ところで館林城は中心部が半島の所にあって、三方が城沼(じょうぬま)にかこまれているので守りやすく、入り江をはさんだ北側にも城の一部が出ているので攻撃にも移りやすいというすぐれた城でした。実際、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の小田原征伐(おだわらせいばつ)の時も石田三成(いしだみつなり)ひきいる大軍に包囲されましたが、戦闘では落城することがなく、ようやく説得に応じて城を開いたほどです。また城の中もいろいろ工夫されています。縄張図(なわばりず)の本丸のあたりを見て下さい。本丸は(黒く塗りつぶされている)堀や(たわしを長くのばしたようなかっこうに描かれている)土塁(どるい:土手のようなもの)に囲まれ、入り口には門があります。南曲輪や八幡曲輪や二の丸も堀や土塁でかこまれていますが、本丸の側には土塁がありません。二の丸が敵に占領されても、味方は土塁にかくれることができても敵はかくれることができないようにするための工夫です。堀がかくかくっと折れているのも、中を見えにくくしたり敵を攻撃しやすいようにするための工夫です。
明治7年(1874)、館林城は火事で焼け落ちてしまいました。その後は土塁もくずされ、堀や沼の埋め立ても進んで、現在では昔の様子は分かりにくくなっています。それでも本丸の土塁や、復元された三の丸(3)の土橋門(どばしもん)が当時の姿を見せてくれます。また、一部ですが本丸、二の丸や南曲輪、三の丸土橋門の周辺、総曲輪の土塁が発掘調査されています。本丸は後の時代に遺構が壊されてしまっていましたが、雨水などを流すための石組みが出土しています。また、三の丸土橋門は四本の柱で支えられたものであったことが分かりました。

もっと知りたい!

まず、子ども科学館のあたりに行ってみよう。子ども科学館の南側のあたりが本丸だったところです。発掘で出土した石組みが復元してあります。また南には本丸の土塁があります。
館林市の資料館には館林城関係の資料が収蔵されています。
館林文化会館の駐車場の西に復元されている土橋門もチェックしよう。
それから館林市教育委員会では『館林古環境復元図 館林城郭・城下町解説書』という地図と解説書を発行しています。
また、もし時間があれば館林の街を歩いてみるのも良いでしょう。幾つかの門のあったところには碑がありますし、城下町の町名を記した看板もあります。

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