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群馬の遺跡・出土品群馬の遺跡案内

西毛地区高田城(たかだじょう)-富岡市下丹生・富岡市妙義町下高田 中世-

高田城は妙義山の東の丘陵(きゅうりょう)地帯にある代表的な中世のお城です。高田川の南側、本村の集落のうしろにある20mほどの高さの丘陵をけずり、堀を掘ってつくられた城です。高田城の谷をはさんだ西側の丘陵にも高田西城がつくられています。西城にはのろし台がもうけられていたと考えられています。 高田城は戦国時代に甘楽郡に勢力をもっていた高田氏の城で、城の北東部の根小屋(ねごや:城下)には今でも家臣の子孫の人たちが住んでいるそうです。

見学案内

高田城は民有地で、草木も深く立ち入ることはできません。

高田川の北側からながめることができます。

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は遺跡の位置を表しています。
ここがポイント

右上の図は、10年ほど前の高田城のようすを軍学の立場からえがいた、縄張り図(なわばりず)とよばれる図です。
高田城は両側を谷でしきられた、幅100mほどの尾根の上に作られています。そして縄張り図の下の方、南側にある中心部と、それより13~14m程低いところの二つの部分に分かれていました。
城の中心は、南によったところにある「本丸」で、その上に続くのが「二の丸」に当たるところです。本丸と二の丸は低い土塁(どるい:土手のようなもの)でかこまれていて上下のはじっこに櫓(やぐら)という物見台(ものみだい)が建てられていました。本城の南、図の下の側には堀をはさんで笹曲輪(ささぐるわ)がありました。 本丸、二の丸と笹曲輪のまわりには腰郭(こしぐるわ)と呼ばれる幅のせまい段々が作られていました。これは城の大切なところが敵に直接見られないようにするための工夫で、敵が攻めてきたときにはここにも兵を置いて攻撃させました。
二の丸の北東、図の右上側には追手(おおて)側と本城側をつなぐ郭(くるわ:城の中の平らな面)があります。この郭は三段に降りていって、堀の中央の土橋(どばし)を渡ると城の先の方の郭に入ります。ここは堀で二つに区切られていて、両側と先の方に腰郭がまわっています。先の方の郭が追手虎口(おうてこぐち:城の正門)になります。追手虎口を出た平らなところが根小屋(ねごや)と呼ばれる城下になります。
さて、この城をつくった高田(たかだ)氏のことは鎌倉時代の記録にものっていますが、高田城がつくられたのはずっと後のことです。高田城がいつつくられたのかははっきりしませんが、戦国時代、藤岡市の平井城にいた関東管領(かんとうかんれい)の家来であったころに、菅原(すがわら)を名乗っていたことがあり、そのころ西方の菅原にいたと考えられますので、その後、高田城へ移ったのでしょう。
高田氏は管領山内上杉(やまのうちうえすぎ)氏のもと、信濃(しなの:現在の長野県)に攻めてきた甲斐(かい:今の山梨県)の武田信玄(たけだしんげん)と戦います。江戸時代に書かれた本には武田と戦うよう主君の上杉憲政(のりまさ)をそそのかし、負けると逃げてしまった悪い家臣として書かれていますが、信濃の滋賀城を守っていた高田憲頼父子は討ち死してしまっているように勇敢(ゆうかん)に戦いました。その後上杉憲政は越後(えちご:今の新潟県)の長尾景虎(ながおかげとら)の元に逃げ、武田信玄が西上州に侵攻してきます。憲頼の子、繁頼(しげより)は激しく抵抗しますが、やがて降参します。その後武田氏は滅亡し、高田氏は侵攻してきた相模(さがみ:今の神奈川県)小田原の北条氏直(ほうじょううじなお)の家臣となります。高田城がつくられたのはこのころだという説もあります。その後、北条氏も滅び、高田氏は信濃に移って高田城は使われなくなったようです。その後、高田氏は徳川家康に仕えています。
高田城は現在でも残っていますが、笹曲輪のあたりはゴルフ場となって今では見ることができません。しかし、壊される前に発掘調査が行われ、笹曲輪全体とその両側の腰郭の一部、それから本丸と笹曲輪の間と笹曲輪先端の堀切(ほりきり:尾根を切って掘られた堀)が発掘調査されました。発掘の結果、城が使われていた頃の笹曲輪や腰郭は平だったこと、本丸との境の堀切は幅8mほど、深さが2.5mほどになることが分かりました。先端の堀切は壊されている可能性があるのではっきりしませんが、本丸との間の堀切と同じくらいか、それより幅の大きいものであったもようです。笹曲輪と腰郭の間の斜面には犬走り(いぬばしり)という通路があって、笹曲輪の前後を仕切る堀切の底につながっていました。それから、本丸の笹曲輪側には土塁がつくられていたらしいこと、笹曲輪の側には土塁のなかったことも分かりました。これはもし笹曲輪が敵に占領されても、味方は隠れながら攻撃できても、敵は隠れることができないようにするための工夫です。また、発掘調査では遺物はほとんど出土しませんでしたが、中世の火鉢(ひばち)のかけらなどが出土しました。

もっと知りたい!

出土した遺物は富岡市教育委員会で保管されています。

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