歴史を紐解く

群馬の遺跡・出土品群馬の遺跡案内

西毛地区中高瀬観音山遺跡(なかたかせかんのんやまいせき)-富岡市中高瀬 ・ 弥生時代-

冬は強い風に吹きさらされ、夏は四方から雷が襲う丘の上、そこは近くに畠はおろか、水さえ手に入れにくい場所でした。鏑川の平地を見下ろすそんなところに、弥生時代の終わりに100軒以上の住居や建物が集中して建てられていました。
急な崖に閉ざされて周りの平地からは簡単には近づけないこの村は、さらに木の囲いや堀そして見張台で厳重に守られていました。またほとんど軒を接するように建てられていた住居の多くは、火災で焼け落ちた状態で発見されました。
なぜそんなところに、そんな様子の遺跡があったのでしょうか。 この場所は生活条件が厳しい代わりに、鏑川の平地だけでなく遠く関東平野の太田金山まで見通すことのできるとても良い眺めをもっています。また長野方面と埼玉方面の両方の土器がいっしょに運ばれていました。弥生時代の終わりは、西日本では邪馬台国に関係して大きな戦乱があちこちであり、また同時に人や物が遠くまで行き来しました。そんな状態が関東まで及んでいたことが、この遺跡により初めて分かったのです。
そのため平成6(1994)年に国指定史跡になりました。

見学案内
上信越自動車道の富岡インターから長野方向に向かうと、すぐに富岡トンネルと名の付いた短いトンネルをくぐります。このトンネルの真上が中高瀬観音山遺跡です。インターを降りて西に向かうと、光厳寺の隣に上が平らで平地に向かって突き出た尾根が目につきます。遺跡はその上にのっています。尾根の西側の坂を上がり高速道路の下をくぐると、左に遺跡に向かう急な登り坂があります。
電車
上信電鉄西富岡駅からはまっすぐ南に向かい、徒歩20分ほどで鏑川を越えて高瀬小学校に着きます。そこからは左手に見える遺跡の尾根の登り口まで、歩いて10分くらいで行くことができます。
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は遺跡の位置を表しています。
ここがポイント

この遺跡は、「北関東での弥生時代の村と社会のあり方を知る貴重な遺跡」として国の史跡指定後、遺跡公園整備に向けての準備が続いています。もともと上信越道の建設で壊されてしまう運命にあったのですが、周辺の住民の強い希望で高速道路は短いトンネルで遺跡の下をくぐることに変わりました。
同じ弥生時代に西日本では戦乱との関係で高い場所に村が作られる場合が少なくなく、また三重の堀で囲まれた吉野ヶ里遺跡のような大規模な守る施設を持った遺跡もあります。そのようなものは関東地方ではあまり注目されてこなかったのですが、中高瀬観音山遺跡の発見により、卑弥呼時代の動乱の影響が及んでいたことが初めて分かったのです。
できれば自分の足で下から登ってみましょう。60mの高さはかなり登りがいがありますが、遺跡の上に立つと荒船・浅間・妙義・榛名・子持・武尊・赤城そして太田金山と遠い山々、また直下の東西に長い鏑川の平地が目の前に広がります。生活する上には厳しい自然条件も合わせて眺めと共に体験すれば、当時の人々の考え、そして荒船山の向こうに隠れる西日本の様子までも思いをめぐらすことができます。もちろん鏑川平地の対岸左手には一ノ宮貫前神社のある丘も間近に見え、弥生から古代にかけての甘楽地方の豊かな遺跡のあり方も手にとるように分かります。
遺跡を残すことを望んだ周辺住民の願いは、そんな歴史と祖先の歩んだ風土に思いを寄せるために生まれたものでした。現代社会にとっての遺跡の意味を考える上でも、大きな意味がある場所といえます。

もっと知りたい!

中高瀬観音山遺跡のキーワードは、「高地性集落」(高い場所にある守りの村)または「環濠集落」(堀に囲まれた村)です。発見された当時は、佐賀県の吉野ヶ里遺跡との比較で、「東の吉野ヶ里」とも呼ばれました。吉野ヶ里遺跡の発見後、弥生時代の大規模な守りの村は全国で発見されるようになりました。邪馬台国の成立する前後の激動の歴史を探る上で大きな意味があるものです(参考:佐賀県教育委員会編1995『吉野ヶ里遺跡と古代国家』吉川弘文館)。
同じ上信越自動車道建設に関係して弥生時代高地性集落の新潟県上越市裏山遺跡の保存運動の際にも、中高瀬観音山遺跡の保存を成し遂げた住民運動が注目されました(参考:文化財保存全国協議会編1998「シンポジウム弥生の砦・裏山遺跡と倭国大乱」『明日への文化財』41)。

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