歴史を紐解く

群馬の遺跡・出土品群馬の遺跡案内

西毛地区国峰城址(くにみねじょうし)-甘楽町国峰他  室町・戦国時代-

国峰城は群馬を代表する山城です。いつごろ造られたかははっきりしませんが、室町時代後半、少なくとも戦国時代にはでき上がっていました。国峰城は南上州の雄(ゆう)、小幡(おばた)氏の居城でしたが、石垣や天守閣のある近世の城とは違って木と土の城でした。城全体としては大変広いものでしたが、本郭(江戸時代で言う「本丸」)のある城の中心は南側の山の中にあって、鏑(かぶら)の谷を見渡すことができます。
小幡氏は室町時代、関東管領(かんとうかんれい)山内上杉(やまのうちうえすぎ)氏の家臣でしたが、小幡憲重(のりしげ)のときの天文21年(1552)、小田原の北条氏康(ほうじょううじやす)に圧迫された主君の上杉憲政(のりまさ)が平井城(藤岡市)を脱出したあと武田信玄(たけだしんげん)を頼って家臣となっています。赤漆(あかうるし)の鎧(よろい)に身を包んだ赤一色の小幡の赤備え(あかぞなえ)は、武田騎馬隊の中心として長篠合戦などを戦いました。武田氏滅亡後、憲重の子、重貞(しげさだ)は織田信長に仕え名を信貞(のぶさだ)と改め、高崎の片岡辺りまで領土を広げましたが、天正18年(1590)の小田原征伐のとき小田原方についたため敗れ、国峰城も使われなくなります。
その後、信貞の子孫は徳川家康に取り立てられ、小幡の赤備は家康の家臣、伊井直政(いいなおまさ)のもとに伊井の赤備の中心となり、関が原の合戦で勇名をはせました。

見学案内

小幡の物産センター前の道路を西に進むと下仁田方面の看板が見えてきます。これを左折して500mほど進み、国峰城入り口の看板を左折します。道なりに1kmほど進み、両側に山があるところからが城内になります。
さらに直進して谷あいを進むと左に入り口の看板が見えてきます。ここを左折し、「城山」の標識を見ながら進みます。今は本城の御前郭まで車で入ることができます。
そこから先は徒歩です。整備もされていて比較的昇りやすくなっていますが、本城のあたりは大変急ですから、できるだけ大人の人といっしょに行きましょう。昇り降りには充分気をつけてください! (縄張り図も忘れずに)

地図を表示
は遺跡の位置を表しています。
ここがポイント

地図を見て下さい。城の北寄りに平らなところがあります。そこは管川という川ぞいの谷です。この谷の北側と南側、そして東側を包むように山が迫っています。その尾根より内側の地区全体が城になります。その範囲は東西3.2km、南北1.7kmという大変広いものでした。
菅川沿いの谷の平らなところには家臣の住む町がありました。このような山城の麓(ふもと)にあって家臣たちが住む町を根小屋(ねごや)と呼びます。国峰城の根小屋は回りの山と谷の入り口に掘られた堀や土塁(どるい)で守られているのです。

もっと知りたい!

そして南の山の中ほどに国峰城の本体、本城(ほんじょう)があります。本城は尾根の上にあってまわりはきつい傾斜になっています。四方に広がる尾根の上には郭(くるわ)という平らな面がいくつも造られていますが、広くはありません。一番高いところにある郭が本丸にあたります。郭と郭は何メートルもの段差があり、そうでないところは堀切(ほりきり、堀の一種)を掘って敵に渡られないよう工夫されています。また郭の回りの斜面は上がるのすら大変ですが、さらに敵兵が横に移動できないよう竪堀(たてぼり)という堀が下に向かって長く掘られていました。
本城から急な斜面を降りた北東側には少し広い郭が段段になってあります。ここは御殿平と呼ばれ、その名の通り、城主小幡氏の屋敷などが建てられていました。両側の谷が堀の役目をしています。
「もっと知りたい」 小幡にある甘楽町の歴史資料館に行ってみましょう。それから国峰城本城に上がってみるのもよいでしょう。ただし、くり返しになりますが、急ですから昇り降りには充分気をつけてください。そして子供さんはできるだけ大人の人といっしょに行きましょう。
小幡氏や赤備えのことを調べてみるには武田信玄のことや長篠合戦のことを書いた本などを調べてみましょう。
子供さんには少し難しいかも知れませんが、城そのものについては山崎一先生の「群馬の古城 西・南毛編」を見てみましょう。

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