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Q&Aよくある質問と回答

群馬県にもお城はあるの?
群馬の中世と城館遺構
神保植松城復元図
テレビで見るような、大きな天守閣(てんしゅかく)を持つようなお城は、群馬には見あたりませんね。
こうしたお城がつくられたのは、戦国時代のおわりころのことでした。そのころの群馬には、大きなお城を作るような、力を持った大名がいなかったのです。
でも、もちろん、群馬にもお城はたくさんあります。
戦国時代には、群馬でもたくさんの戦いがあったので、戦闘用のお城がいくつも作られました。
前橋の県庁や高崎市役所も、お城のあとに建っています。
小高い丘や山の上にも、お城のあとがたくさん見つかるそうです。
群馬県にもお城はあるの?
夏休み、福島県に旅行に行きました。そこで、会津の若松城という大きなお城を見ました。大坂城、江戸城の絵を教科書で見ました。群馬県にもお城はあるのですか?
お城は特別な場所にだけつくられたのですか?

お城というと、みなさんの頭にうかぶのはどんなイメージですか?
水をたたえたお堀(ほり)、大きな石をつみあげた石垣(いしがき)、そしていちだん高いところにそびえる天守閣(てんしゅかく)。春にはお堀に桜が舞い散る様子、冬は、白く雪化粧をした美しい天守閣。ニュースの映像やカレンダーなどの写真でもおなじみですね。お城と言えば見上げるように大きな建物を想像する人が多いのではないでしょうか。
さて、質問の答えですがもちろん群馬県にもたくさんのお城がつくられてきました。でも現在、写真やテレビでみるようなお城は見あたりませんね。それはなぜなのでしょうか。それでは、お城の歴史とつくりについて調べ、さらに群馬県のお城について考えてみることにしましょう。
群馬県にもお城はあるの?
神保植松城復元図
右の絵を見てください。これは高崎市にある神保植松城(じんぼ うえまつじょう)というお城の復元図です。みなさんがイメージするお城と、ちょっとちがうでしょう。
「城」はもともとは敵の侵入をふせぐための施設(しせつ)です。そのためにはまず堀を掘ります。そしてその土をもりあげた土塁をつくり、大切な場所には、「とりで」をつくるのです。南北朝から戦国時代には、たくさんの城が山につくられました。高さの違いのある山につくられたことから、山城(やまじろ)と言われています。南北朝期には「守り」を目的とした城が中心でした。守りやすく攻められにくい城がつくられました。山の尾根(おね)などを利用し、敵に見えにくいような城をつくったのです。
戦国時代になると、守りはもちろんですが、さらに攻めることも目的となります。守るだけでなく、敵をむかえうつことができるような城がつくられるようになったのです。山だけでなく、平地にもつくられるようになります。これは山城に対し平城(ひらじろ)と言われています。平城をつくる際、四方向(四つの方向)のうち一方は自然の川などを利用しています。前橋城は利根川を、高崎城は烏川を、館林城は城沼をそれぞれ利用してつくられています。有利にたたかいをできるような城がつくられるようになったのです。
またこの時代の城のもうひとつのとくちょうは、「土と木」でつくられていることです。「城」という字を見てください。「土から成る」と書きますね。土をほり、その土をもりあげて城はつくられたのです。
安土桃山時代以降、山城はへり、平城や平山城が多くなります。領主(りょうしゅ)が人々を支配するのに便利だからです。そして、質問にあった若松城のように大きな天守閣もつくられるようになるのです。姫路城はその美しい天守閣の姿から、白鷺城(しらさぎじょう)と呼ばれています。城主は壮大な天守閣をつくることで、自分の力を示すようになります。城は、たたかいのためだけでなく、政治的な意味ももつようになっていくのです。
その後、徳川家康によって江戸幕府が開かれると、城はまた少し様子が変わります。家康の命令によって、城がこわされたり、新しくつくったり、つくりかえるときのきまりがきびしくなるのです。
お城はどのように作られているの?
それでは、もう一度上の神保植松城の復元図を見てください。建物のまわりに堀が掘られているのがわかりますか?この復元図は昭和62年から行われた発掘調査の結果をふまえてつくったものです。神保植松城は存在が知られていましたが発掘調査が行われたことでたくさんの成果をあげることができました。

それではここで、少しお城のつくりについて説明します。
堀(ほり)・・・敵の侵入(しんにゅう)をふせぐためにつくるもので、人工的にほったり、自然の川や湖を利用したりしてつくられました。水のあるものは水堀、ないものは空堀(からぼり)と言われます。
土塁(どるい)・・・土を盛り上げて造った土手のようなもので、外から見えにくいようにするものです。腰くらいの高さの低土居と、180cm位より高い高土居があります。
郭(くるわ)・・・曲輪(くるわ)とも書きます。山の斜面(しゃめん)をけずり、けずりとった土を前に盛ると一つの区画ができます。その区画のことを郭といいます。建物が建てられているところです。後には「丸」というようになります。
虎口(こぐち)・・・城の出入り口のこと。もとは、小さく口をあけること(小口・・・こぐち)でしたが、今はその形が虎の口ににていることからこの字がつかわれるようになりました。一番先に敵に攻められる場所であり、攻め出る場所でもあるので様々な工夫をして注意深く複雑につくられるようになりました。
群馬県のお城はどこにあるの?
群馬県では現在、大きな天守閣のあるお城を見ることはできません。しかし武士たちのたたかいは何度もあり、重要な役割をはたした城もあるのです。群馬県の城についてさかのぼると、鎌倉時代に源頼朝が新田義重に使いを送ったのが「寺尾城」であったと書かれているのが最初となっています。
戦国時代の群馬県は武田氏や上杉氏のように、地方の大きな勢力のある武士に統一されることはありませんでした。そのため、武田、上杉、北条などのあらそいのうずにまきこまれることになってしまうのです。高崎城のもとになる和田城が和田氏によってつくられました。和田氏は、上杉、武田のたたかいのとき、武田氏につきます。となりの倉賀野氏は上杉氏についてあらそうのです。
もちろん、県内の各地には小さな勢力をもっていた、由良氏(ゆらし)、沼田氏、真田氏、長野氏、長尾氏などがいました。彼らは大きな勢力のあらそいのなか、家を守るため、まわりの様子をさぐりながら様々な努力をするのです。
さて、群馬県にも天守閣のある城はあったのです。前橋城、高崎城、館林城沼田城などです。前橋城は利根川の流れがかわったために、流れてしまいました。高崎城はとりこわされてしまいました。館林城は火事で焼失してしまいました。それぞれの理由で現在は残っていないのです。しかし、今も城に対する人々の気持ちは強く、沼田城は二重櫓(やぐら)が復元されるのだそうです。
このように群馬県はたくさんの争いや戦いがあり、それにそなえて多くの城がつくられたのです。現在、大きな城は残ってはいないものの、地形をうまく利用してつくられた城や、重要な役割をはたしていた城などたくさんの城があるのです。そしてそれぞれの地域の人たちは、昔の城をなつかしく思い、大切にしているのです。石垣、堀などが残る場所はたくさんあります。城の跡を訪れ、どんな目的でどのように城をつくっていったのか考えてみることも地域の歴史を知るひとつの方法です。

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