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Q&Aよくある質問と回答

たて穴式住居ってどんな家?
竪穴住居の作り方、暮らし方
矢田(やだ)遺跡の復元住居
竪穴住居はその名のとおり、穴を掘って、その底に床(ゆか)をつくり、柱を立てて屋根を葺(ふ)いた建物です。
写真は、高崎市の矢田遺跡で竪穴住居を復元したものです。
古墳時代(約1,500年前)の竪穴住居です。
群馬県では縄文時代から、奈良時代・平安時代にも、多くの人々は竪穴住居に住んでいました。
渋川市の黒井峯遺跡や、中筋遺跡では榛名山の軽石や火山灰にうずもれた、古墳時代の竪穴住居が見つかりました。
くわしい調査によって、住居の作り方が、とてもよくわかってきました。
たて穴住居の中にはトイレやお風呂はあったんですか?
竪穴住居の中のようす
右の写真は今から1600年ほど前の竪穴住居の模型です。中をのぞいてみると、一部屋だけで、トイレもお風呂も見あたりませんネ。
トイレやお風呂は竪穴住居にはなかったんです。もちろんガスも水道もありません。家の中でまきを使って火をたいていましたが、今でいうとテントに住んでいる感じでしょうか。
昔の人はトイレはどこか外でしていたのでしょう。お風呂の代わりに川や池に水あびに行っていたんだと思います。
また、右の竪穴住居では中に見える炉(ろ)でまきを燃やしてご飯をつくるようすがわかります。
たて穴住居は地面を掘ってつくっているのに雨の日には水が入らなかったんですか?
下芝五反田(しもしばごたんだ)遺跡の竪穴住居
竪穴住居はその名のとおり、穴を掘って、その底に床をつくっていました。
穴の深さはだいたい50~60cm、古墳時代の後期(今から1、400年ほど前)の竪穴住居では1mをこえるものもありました。
こんなに深くすると水がたまりそうな気がしますネ。
でも大丈夫。竪穴住居の屋根はたて穴より外側まで延びていて、竪穴のまわりには穴を掘ったときの土が低い土手のように盛り上げてあるので水が入りにくくなっていたのです。
またこの土手の外側に水ぬきの溝を掘ったものもありました。
たて穴住居の中にはストーブはなかったんですか?
村主(すぐろ)遺跡の平安時代のカマド
教科書や図かんで山上憶良(やまのうえのおくら)の貧窮問答歌(ひんきゅうもんどうか)というのを読みました。昔の家の中はずいぶん寒かったようだけど、たて穴住居の中には、ストーブはなかったんですか?

群馬の竪穴住居は1、500年ちょっと前をさかいに、それより古いものには床に炉(ろ)を、新しいものは壁ぎわにカマドを造って火をたいていました。それがストーブの役目もしていましたが、貧窮問答歌のようにカマドに火がたかれてなかったら寒かったことでしょう。
村主遺跡の平安時代のカマド
でも、右の写真のような復元した、竪穴住居に泊まった人の話によると、竪穴住居の中はちょっとしめっぽいけれども、夏はすずしく冬はあたたかいそうです。また古墳時代の群馬の竪穴住居では、草ぶきの屋根の上に土を乗せたり、草ぶき屋根の間に土をはさんだりする土ぶき屋根にしていました。土ぶき屋根にすると、断熱効果(だんねつこうか)でカヤだけの屋根より夏はすずしく冬は暖かくなります。
山上憶良の生きた8世紀の群馬でも、竪穴住居は土ぶき屋根にしていたと思われますので、多少寒さはやわらいだことでしょう。
たて穴住居には何人くらい住んでいたんですか?
何人住めたのでしょうか
(勝保沢中ノ山遺跡(かっぽさわなかのやま)の大型住居)
よく分からないのです。そこで一人が寝るのに畳(たたみ)1枚使うとして計算してみましょう。直径5mの縄文時代の竪穴住居だと、計算上12人寝ることができます。しかし火をたいている炉(ろ)や、土器などを置くスペースを考えると、多くても5~6人ということになるでしょうか。実際にどうだったかは分かりませんが、竪穴住居の大きさは2~3mのものから10mを越えるものもありますので、家によっては何家族もいっしょに暮らしていたものもあったことでしょう。
しかし群馬では6世紀よりあとの時代になると、普通の人の家でも同じ土地の中に、竪穴住居だけでなく、掘立柱(ほったてばしら)の建物や倉庫などがいっしょに建てられていたことが分かっています。ですから、たて穴住居だけで何人住んでいたかを考えることができないのです。

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