弥生時代
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渋川市有馬遺跡出土の人形土器. 美術の目・考古の目……国立歴史民俗博物館館長 佐原 真

1 弥生の美

控えの美

 縄紋(縄文)の美の優品と古墳の美の傑作の谷間にあって、群馬の弥生の美は控えめです。しかし、胴が豊かに張ったつぼ、先がいくつにも分かれた工具による櫛(くし)描き紋様は、群馬の縄紋土器にはありません。民芸の美しさにも通じる農耕社会の造形です。弥生土器は、実に農民の土器なのです。

 そして、中空の器(うつわ)から目や口をくり抜いた渋川有馬のつぼは、数百年後の群馬が生み出す愛らしい埴輪の先駆けと見ることもできます。
 控えめの美も、またいいものです。

縄紋と弥生

 縄紋土器の時代が縄紋時代、弥生土器を使ったのが弥生時代というのが本来の定義です。別の見方もあります。日本の大昔を古い順に、食料採集で暮らした生活の最初が岩宿(旧石器)文化――ここでいう文化は、生活様式・暮らし方に近い意味です――、次が縄紋文化、食料生産で暮らした生活の最初が弥生文化というとらえ方です。私はこの考えです。

 東京本郷弥生町でみつかったつぼが研究の出発点になった弥生文化は、本格的な水田稲作と畑作(稲・粟=あわ・黍=きび・豆など)を開始し、豚・鶏を飼い、鉄・青銅器を作り始めた文化です。弥生文化の時代が弥生時代――およそ二千四百〜千七百年前――その土器が弥生土器、その担い手が弥生人です。

 弥生文化が来たとか弥生人がやってきたとか言う人もいます。しかし、海の向こうに弥生文化はなく、弥生人はいませんでした。大陸から来た文化要素と縄紋文化の伝統を引く要素とが合して弥生文化が生まれました。渡ってきた人びとが、縄紋人と混血して、あるいは縄紋人が稲作の暮らしを始めて、弥生人になりました。群馬ではおそらく縄紋人が弥生人になりました。

 弥生文化は人の上に人を作り、人の下に人を作りました。階級社会成立への方向が始まったのです。いくつもの村が結びあって政治的にまとまり、「国」が出来始めました。そしてまた、集団と集団がぶつかり合って大勢殺す、という意味での戦争が始まりました。

縄紋の美と弥生の美

 評論家の谷川徹三さんは、縄紋土器と土偶とを「縄文的原型」、弥生土器と埴輪とを「弥生的原型」とよび、二つを日本の美の原型と考えました。

 多彩な形と自由な装飾性、どこかに暗い不安を秘めた怪奇な力強さ、渦巻いている幻想や情念の焔(ほのお)を谷川さんは縄紋土器に見出(みいだ)しています。強烈なものや怪奇なものはいささかもなく、器物の機能を素直に生かした安定した形の中に、明るく優しく、親しみ深い美しさを、彼は弥生土器に感じています。さらに谷川さんは、動的―静的、装飾性―機能性、怪奇―優美、有機的(生命的)―無機的(抽象的幾何学的)、男性的―女性的、非合理的―合理的という対照もあげています。

 そして、@貞観の仏像彫刻―藤原の仏像彫刻A桃山の障屏画―初期肉筆の浮世絵B日光東照宮―桂離宮C瀬戸黒・志野・織部の茶陶―柿右衛門・京焼D白隠の書画―良寛の書E北斎―広重、番外として伎楽面―能面をそれぞれ縄文的原型と弥生的原型として対照しているのは、とても面白いと思います(一九六九年「日本の美の系譜について」『世界』九月号)。

 中部・関東地方の中期縄紋土器と、九州〜近畿地方の中期弥生土器とをくらべる限りでは、右の縄紋・弥生の対照は正しいのです。ところが、縄紋土器も弥生土器も、年代差・地方差が千差万別です。最大公約数的に特徴をとり出すことなどとても出来ません。谷川さんの縄文的原型に属する弥生土器はいくらでもあり、弥生的原型の縄紋土器も沢山あるのです。

 ロクロも窯(かま)も使わず、千度未満で、酸素をじゅうぶん供給して焼き上げた軟質赤焼き土器、という基本的技術を縄紋土器と弥生土器は共有しています。

縄紋土器との違い

 鉄の刃もので加工した道具を使った点は、弥生土器に特徴的です。

 鉄の刃で割った針葉樹の板を生乾きの土器の表面にこすりつけていると、木目のうち、軟らかい方の夏目が先にすり減って、硬い冬目による平行線が土器の表面に目立つようになります。これが「刷毛目(はけめ)」です。鉄の刃で刻んだ「櫛」で描いた紋様もあります。鉄の刃で平行線を刻んだ叩き板で叩き、鉄の刃で彫ったスタンプ紋様を押すことも西日本では盛んでした。これら鉄器時代にふさわしい手法や紋様と、縄紋土器からの伝統の縄紋とを合わせ用いているのが、群馬をふくむ東日本の弥生土器の特徴です。なお、一本線でつけた紋様を篦(へら)描き紋とよんでいます。

 弥生土器で目立つのは、つぼ(壺)です。大きくふくらんだ胴の上で、くびがすぼまり、口が開く器で、貯えるために使います。関東地方では、遺体をくさらせたあとで骨を納めるのにも使いました。

 縄紋土器の研究で深鉢とよぶ、深く口の大きな器を弥生土器の研究では、かめ(甕)とよんでいます。かめは、もともと水やお酒を容れる器の名前なので、ふさわしいとはいえません。火にかけて煮炊きに使う器なので深鍋とよぶこともできます。外側が煤(すす)で汚れていたり、内側にお焦げが付いていたりします。沼田市町田小沢U遺跡のかめにはご飯がこげついて沢山入っていました。

 食物を入れる鉢も、ごく普通の器です。筒形の深い鉢は東日本に特有です。

 フルーツ皿のように、高い脚台にお皿をのせたような高杯(高坏=たかつき)や、つぼ・鉢などをのせるための台――器台――は西日本の後半の弥生土器に目立っています。東北地方の縄文土器から伝わったもの(図90)などを除けば、東日本では、弥生土器の後身、古墳時代の土師器(はじき)の器種として発達しました。

 弥生土器には巧みであるけれども仕上げに時間をかけた「巧遅(こうち)」の土器と、巧みさはなくても手早く仕上げた「拙速(せっそく)」の土器があります。弥生土器から、古墳時代の土師器にかけては、大勢として巧遅の土器から拙速の土器へと移り変わりました。

 美術の目で見れば、美しい土器からそうでない土器へ、優れた技術から劣った技術への変化です。しかし、時間と労力を費やした土器から職人的素早さで作る消耗品の土器への変化ととらえ、その背景に社会の進展をみるのが歴史の目です。

 弥生土器でもうひとつ大切なのは、技術の分裂が始まったことです。有力者が出現すると、彼らの祭りや墓のために巧遅の土器を作り、一般の人びとの使う土器は拙速の土器として作るようになります。有力者のための技術と普通の人びとのための技術が分裂したことは、木製品や他の工芸品・建築などでも明らかです。

 今、他の学問どうしが協力して学際的研究を進めることが盛んになりました。考古学と美術史も親しくつきあわなければなりません。そこで、この機会に、縄紋の美・弥生の美を日本美術史と日本考古学がどうとらえてきたかをとりあげて、学際的研究にそなえておきたい、と思います。


2 日本美術史と日本考古学

大昔に無関心だった美術史

 今では、本州・四国・九州・沖縄の人びとと近い関係にあって、アジアの人に属することがわかっているアイヌの人びとは、かつて、「日本民族」とは違う「人種」とみられていました。そして縄紋土器は、アイヌの祖先か、彼らの伝説上の先住民の作品と理解されていました。

 岡倉天心は、一八九○(明治二十三)年に書いています。「この人種は一種の土器を製することを知り、その製品が所々に発掘される。これは固(もと)より大和民族とは異種であって、未だ美術を製する地位を得ない」。(『日本美術史』)

 飛鳥・白鳳・天平の名をあたえて彼が絶賛した日本美術は、中国・朝鮮半島の「異種」が創り出した美術のほとんど生き写しではありませんか。それなのに「異種」の作った縄紋土器は切り捨てたのです。

 一九一六(大正五)年に、日本で初めての考古学講座が京都大学にできました。これを率いた浜田耕作(青陵)さんこそは、縄紋・弥生の美をとりあげることが出来たはずの人です。なぜならば、浜田さんは、東京大学で美術史を修め、京都では、考古学も美術史も講じているからです。

 しかし、縄紋人を日本人の祖先とはみていなかった浜田さんは「彼等の土器の意匠装飾等、大いに見る可きものあれど、我が日本民族の美術史と関係する処殆どこれなきを以て今之を述べず」(一九○七=明治四十年「仏教以前の日本美術」、『国華』第二○五・二○六号)とかたづけました。

 のちに、縄紋人を日本人の祖先ととらえるようになってからも浜田さんは「我が日本人の祖先が嘗(かつ)て石器を使用して居った時代のことは、今は之を省いて、主として古墳によって現はされてゐる美術」をあつかっているのです。(一九一七=大正六年「我国上古の美術に就いて」、『国華』第三二八・三三一号)

 一九三六(昭和十一)年、『日本美術史概説』で笹川臨風さんは、「美しい国土、自然に恵まれた国土に生まれて、神代以来、鏡作りや玉磨き、銅鉄の鍛冶、土器の製造、機織、染色にも相当技倆を見せてゐた民族であるから、美術の方面に進展するのも当然」と書き出し、日本美術として最も誇るべきものとして、第一に天平時代・鎌倉時代の彫刻をあげています。縄紋・弥生にはふれていません。(『歴史公論』第五巻第一号)

 「紀元二千六百年(「神武天皇即位」から。一九四○=昭和十五年)の光輝ある佳節を迎へて日本文化の歴史を回顧し我美術の進展の状勢を考察」した瀧精一さんは、正倉院の「御物」や法隆寺の什宝(じゅうほう)を第一にあげています。(「日本美術の進展」、『国華第六○○号』)。縄紋・弥生には触れていません。

 戦争中、世界的視野で日本美術を論じた矢代幸雄さんは、縄紋土器・土偶について「濃稠執拗(のうちょうしつよう)にしてこちらの感覚にまで憑(のりうつ)って来るようなグロテスクな文様」「しつこいほど濃厚強烈にしてグロテスクな神秘性の強調、装飾の過剰」「意外なほど強烈なる原始民族の造型感覚」と書いています(一九四三=昭和十八年『日本美術の特色』岩波書店)。

 日本の学問が自由を獲得してからも、一九四八(昭和二十三)年、上野直昭さんは『日本美術史』の開巻第一ページを「日本美術史は仏教美術から始まる」と書き始めています。明治以来、美術史家にとって日本の大昔の造型は、関係ないか関心の外か、グロテスクだったのです。浜田耕作さんがそれを取りあげなかったのも、美術史の出だったからでしょう。

 百年近く前、タヒチで描いたゴーギャン、アフリカの造型作品に触発されて立体主義(キュービズム)に入ったピカソ。彼らを生んだパリの土壌で育った画家の岡本太郎さんが一九五○(昭和二十五)年に縄紋土器を絶賛しました。以来、美術史家は、ようやく大昔の造型に注目し始めるのです。そして日本美術史の牙城『国華』は、一九六三(昭和三十八)年、第八五四・八五五の二冊を原始美術特集にあけわたしました。

美術史を書かなかった考古学

 美術史家は大昔の美に関心もちませんでしたから、大昔の美術は考古学研究者にゆだねました。

 「手法に凝滞(ぎょうたい=とどこおって進まないこと)の痕なくして、或は剛健(たくましく、すこやかなこと)の風を帯ぶものあれば、或は雅致(がち=みやびやかな風情)の愛すべきも存し、石器時代の状態に於いて斯(か)かる製作を敢えてせしに驚かさるるものがある」(柴田常恵、一九二九年「日本石器時代」図版解説 花瓶形土器『世界美術全集3』、平凡社)。

 これは考古学研究者が富山県氷見大壕洞窟出土の中期縄紋土器について書いた文章です。考古学研究者にしては善戦している、と思います。

 「口縁部を欠きて底部に損傷を有する外(ほか)、略(ほ)ぼ完備せるものなるが、名古屋市高倉貝塚より発掘せられ、現存部の高さ五寸、腹徑四寸三分を有する。全体の形状稍々独楽(ややこま)に似て、腹部は割合に扁平となり居り、脚部は小形にして一段の節(ふし)が作られる。頸部(けいぶ)には刷毛目の上に珠文と櫛の歯形を置き、肩部以下には三段に造れる刷毛目の間に篦書にて綱目を適宜に配せられ、腹部には櫛の歯形を有する二條の陽線を廻らして居る」(柴田常恵、一九三○年『日本金石併用時代』図版解説、脚付壺形土器)。これは宮廷様式(パレススタイル)の愛称のある弥生土器ですから、渋川市中村遺跡のつぼと似ています。説明文も似ていますね。

 紀元二千六百年記念日本文化史展覧会には、縄紋土器・土偶、弥生土器・銅鐸、埴輪も並びました。その解説には「この石器時代にも、ものの美しさを感じそれを愛する力を有してゐた。殊に我が国はこの原始生活の時代から美に対する感覚は、世界のどの人種よりも高度に発達してゐた為に、その時代に作られた種々の器物は、他の何れの国より発見されるものに比べても頗(すこぶ)る優秀なものを遺してゐる」とあり、縄紋土器については、「意匠文様が頗るすぐれ、世界石器時代の土器の中で最高の発達を遂げたものである」、弥生土器については「この系統の土器は縄文式系のように意匠が豊富でないが、文化が高級である為に全般的に洗練された感じを抱かしめるものが多い」とあります。書いたのは、考古学者の後藤守一さんに違いありません。

 歴史の教科書は神話から始まり、縄紋・弥生は出てきませんでした。しかし、研究は着々と進み、一九三七=昭和十二年には東京で、更新世(旧称洪積世、一万年以上前)とみられる赤土(ローム)層の中にめりこんだ状態で古い縄紋土器がみつかりました。後藤さんは「神武天皇が日本の国をしっかりとおまとめになる前に(略)。最初の日本人といふのは、今のところは七八千年前といふことがわかってゐるが(略)七八千年よりもずっと大昔に既に住んでゐたのかも知れないと思はれます」(一九四二=昭和十七年『先史時代の考古学』績文堂)と書きました。また、古い弥生土器が九州から近畿に伝わった、という研究成果を神武天皇「御東征」と結びつけて理解しました。

 日本が外国にはみることの出来ない栄光の歴史を持ち、万世一系の天皇をいただいている、という皇国史観は縄紋土器・弥生土器の研究を利用することもできたのです。

考古学研究者も美は知っている

 発掘したばかりの土器は、われて、土にまみれています。しかし、何千年もの眠りからさめて日光を浴び、大気を吸った瞬間の土器の美しさ、といったらありません。展示棚の上で電光を受けている土器の比ではありません。この美しさに最初に接し、縄紋人・弥生人以来初めてそれを手にもつ特権は発掘者のものです。

 考古学研究者は、初めから縄紋・弥生の美しさを知っていました。書かなかっただけです。なぜ美について書かなかったか、といえば、美の本質や構造を追究するのは考古学の仕事ではないと考えていたからです。

 美術考古学の長広敏雄さんは「この流麗な曲線から古代人の美意識が伝わってくる」式の文章を書きました。しかし、ふつうの考古学者は、その線は何を使って描いたか、を観察して書くのです。たとえばさきほどの柴田常恵さんの文章のように、そして、たとえば「中空の管を縦に半分に割り(半截竹管=はんさいちっかん 解説107)、その割った方の側を土器面にあてて平行線の渦巻きを描き」というように。美的鑑賞を意図的に遠ざけて、客観的な記述に努めてきたのです。

 今も、美術史や原始美術と題する書物の中での考古学研究者の文章は、たいてい考古学の流儀にしたがっているのです。

 美術史の青柳正規さんは、考古学の研究成果を学習したうえで、縄紋・弥生・古墳の美を書いています(一九八三年「原始美術」、『名宝日本の美術1』小学館。一九九一年「六世紀までの美術―呪術・祀―」『岩波日本美術の流れ1』)。いま考古学も美術史を学んで見方をひろげたい、と思います。印象派の絵も現代美術も鑑賞して学び、視野をひろげて大昔の美を見なおそう、と私たちも試みを始めています。


弥生時代 目次 解説 水田 稔
高台付き鉢(渋川市南大塚遺跡) 甕形土器(渋川市南大塚遺跡) 壺形土器(渋川市南大塚遺跡)
壺形土器(渋川市南大塚遺跡) 壺形土器(藤岡市沖II遺跡) 壺形土器(藤岡市沖II遺跡)
壺形土器(吾妻町岩櫃山遺跡) 壺形土器(吾妻町岩櫃山土器) 甕形土器(吾妻町岩櫃山遺跡)
甕形土器(吾妻町岩櫃山遺跡) 壺形土器(大胡町金丸遺跡) 壺形土器(箕郷町中善地遺跡)
彩色土器(富岡市七日町観音前遺跡) 筒形土器、壺形土器(桐生市平井遺跡) 袋形土器(桐生市神明山遺跡)
壺形土器(前橋市荒口前原遺跡) 壺形土器(前橋市荒口前原遺跡) 壺形土器(前橋市荒口前原遺跡)
壺形土器(川場村立岩) 人形土器(渋川市有馬遺跡) 朱塗り壺形土器(高崎市八幡遺跡)
壺形土器群(沼田市町田小沢II遺跡) 甕形土器群(沼田市町田小沢II遺跡) 甕形土器(沼田市町田小沢II遺跡)
台付き甕、台付き片口土器(沼田市赤坂遺跡) 台付き坩(沼田市赤坂遺跡) 壺形土器(渋川市中村遺跡)