![]() 銅製馬鈴(どうせいばれい) ![]() |
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群馬県から出土する馬形埴輪にとって、鈴は必需品である。胸繋(むながい)・尻繋を中心に多くの箇所に鈴の表現が見られる。鈴なくして馬形埴輪は成り立たないと言っても過言でないほどである。
ところが、この遺跡のように石室内から馬具としての鈴そのものが出土するケースは極めてまれなのである。ただし、鈴付きの杏葉(ぎょうよう)・鏡板等は案外多く認められる。その意味で小泉大塚越3号古墳の鋳銅製の鈴6個は、群馬県では貴重な例である。 本体は直径約3cmの球形で、先端には方形の吊り部がつき、下には一文字の穴があけられている。振ると、カラカラと古代の音がよみがえる。目をつぶると、つり下げた鈴を鳴らしながら馬に乗って歩を進める首長の姿が浮かぶ。 |
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平井地区1号古墳は白石古墳群中につくられた直径30mほどの円墳である。この大刀は完全に残っており、極めて保存状態の良好な優品である。柄頭(つかがしら)から鞘尻(さやじり)まで、外装のすべてが金属製、金ピカの大刀である。柄頭は金銅製の単鳳環頭である。柄は握りの部分に銀線を巻き、要所を金銅製の金具で締めている。鞘は鞘木をあらかじめ内側から鱗(うろこ)状の文様を打ち込んだ薄い銀板で覆い、人の目にふれる表側には、さらにハート形の透かし文様のある金銅製の飾り金具を鋲留(びょうどめ)している。鞘口、鞘の中程、鞘尻の3カ所にも金銅製の金具が装着されており、唯一、鞘尻の蟹目金具(かにめかなぐ)の釘(くぎ)だけが鉄製という徹底ぶりである。
6世紀に入り、装飾を施した大刀が大王や地域の有力者を権威づけるシンボルの一つとなるにつれ、実戦用とは別に、外見の見栄えばかりが強調た大刀が作られるようになる。ここに掲載した金銅製の大刀はその典型である。国指定重要文化財。(徳江秀夫) |
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平井地区1号古墳からは、単鳳環頭大刀(リンク)のほかに、装飾の異なるもう一振りの大刀が出土した。 写真の大刀は柄頭の部分を側面から見たときに、先端が丸くおさまる形になることから、円頭大刀と呼ばれている。柄頭の長さは7.8cm、鉄製である。発見されたときは分厚いさびに覆われていた。X線透視による調査で象嵌(ぞうがん)の存在が確認され、さび落とし、クリーニングをへて現在の輝かしい姿になった。
象嵌は鉄地に銀線を埋め込んでいる。その文様は鹿角装(ろくかくそう)の刀剣などに伝統的にみられた直弧文(ちょっこもん)ではない。亀甲繋文(きっこうつなぎもん)という六角形をした文様が13区画、全面につながっている。区画内には鳳凰(ほうおう)が表現されているというが、簡略化されて鳥の姿には見えにくい。それよりも、目釘穴と呼ばれる穴を囲む亀甲文の中に、花びらの形をした文様が象嵌されているのがわかる。その他の装具は柄に銀線を巻く。鍔(つば)と▲(はばき)は鉄製で銀嵌を施している。黒漆塗りの鞘木を締める金具は銀製である。国指定重要文化財。 (徳江秀夫) ▲は金へんに祖 |
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古墳時代の人たちは、帽子好きだったのか。いな、単に好きなだけでなく大事なものと重要視していたのである。実物の出土例は聞かないが、現在と同じ布・革などの材質でできていたのであろう。埴輪の場合このように、帽子そのものをかたどった器財埴輪の一種としてつくられたものもまれにあるが、数としてH非常に少ない。これとは別に、人物埴輪がかぶって出てくる方が、例としては多いかもしれないが、この場合は必ず男子埴輪である。帽子が男性の専有物であった可能性が強い。
写真は、山高帽子のような形をしている。つば寄りの部分に帯がめぐるのは、現代の帽子と同じである。東京国立博物館保管の太田市由良出土の「帽子をかぶる正装の男子埴輪」は、まさしくこの帽子をかぶっている。この種の帽子は高貴な身分の男性がかぶるものであったことがわかる。国指定重要文化財。 |
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最初この種の埴輪が発見されたとき、なにを表した埴輪かわからなかった。その形から「消火器形埴輪」と呼ばれたこともある。
上から1番目の節のところまでが、握るための柄に相当する。そこには、サーベル状の勾金(まがりがね)がついており、背に三輪玉(みわだま)の飾りを連ねている。ここより次の節までが鞘に入った刀身部分に相当する。筒形につくってあるので、刀身部分とはほど遠い形状である。
平井地区1号古墳より早い段階に属する、塚廻り古墳群の大刀形埴輪の場合は、刃の側を細身にしたリアルな表現であり、高さが130cm以上あることなどから、聖域を護るための埴輪であることを、大きさによってもあらわそうとしていたことがわかる。 塚廻り古墳群とこの遺跡との比較から、埴輪樹立の本来の意図が薄らいで、形骸化の方向に向かいつつあったことが推測される。国指定重要文化財。 |