![]() 土師器短頸壺・坏(はじきたんけいつぼ・つき) ![]() |
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2つの円墳(径9m)の周堀から発見された。堀の底に置かれたのではなく、埋没土の中ほどから出土したことから、もともとは供献用として墳丘上に置かれていたものが、後世に転落したものと推定される。
両方の土器は形が整い、表面が非常に滑らかに仕上げられている。表面をよく見ると、斜め方向のきめ細かい線が全面に施されている。これは、土器が生乾きになった時点で、細い棒や小石のような硬いものをこすりつけて磨き上げる「ヘラ磨き」と呼んでいる手法で、意匠的な意味合いが強いものである。つくりのていねいさがうかがえる。葬送儀礼用の土師(はじ)器として特別に作られたものかもしれない。 |
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太田市の北西部にある前方後円墳(墳丘長102m)の竪穴式石室から出土した。
短甲は横矧板鋲留式(よこはぎいたびょうどめしき)という型式で、技術的進歩により構成する鉄板の枚数が大幅に少なくなっている点と、鉄鋲(リベット)により鉄板どうしを接合している点が特徴である。これにより飛躍的な増産が可能になった。事実、全国で発見される短甲の大半はこの形式である。 胄は小札(こざね)鋲留式衝角付胄(しょうかくつきかぶと)と小札鋲留式眉庇(まびさし)付胄と呼ばれるものであるが、前者が実戦向きなのに対して、つば付きで頂部に直立する飾りの付く後者の方が儀仗的性格が強い。 鶴山(つるやま)古墳の副葬品には、これらの甲胄類に加えて、鉄剣・直刀・鉄鏃(ぞく)・鉄鉾(ほこ)・革製盾などと石製模造品があった。これらの内容から注目されるのは、副葬品の主体が武器・武具にあったこと。この時期の首長の存立基盤に変化が生じ、軍事的に優越することがその地位につくための必須条件であったことを示している。 |
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帆立貝(ほたてがい)式古墳(墳丘長約30m)の竪穴式系の埋葬施設から出土した。 |
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5世紀後半以降の古墳が密集する、高崎市の八幡原(やわたばら)地区で出土したものと伝えられている。全国的にみても人物埴輪としての出来栄えのよさが広く認められている。考古資料や美術史全集などの巻頭を飾ることがしばしばである。
円筒形の基部の上に円形の台座を造り、その上に右足を上に組んであぐらをかく座像。水玉模様の上着とズボンを身にまとい、頭には、三角形の山形が連続する冠をかぶる。 左の腰には柄(つか)の部分を玉で飾った儀礼用の大刀を装着している。左手は刀の鞘口(さやぐち)を握り、右手は今にも柄に手をかけて抜こうとするさまで、相手を威嚇する張りつめた空気がある。 この埴輪が、支配者(首長)の姿を表していることは明らかである。王位の椅子(いす)にすわり、金色に輝く冠をかぶり、装飾付きの大刀をつけ、地域の首長の座についたことを内外に誇示している様子をうかがわせる。国指定重要文化財。 |
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榛名山の東南麓にあたる箕郷(みさと)町・群馬町の地域は、5世紀後半に飛躍的な発展を遂げた。その象徴的存在が、3基の大型前方後円墳からなる保渡田(ほどた)古墳群とその首長の居館と考えられる三ツ寺T遺跡である。下芝谷ツ古墳(方墳、一辺約20m)は、保渡田古墳群の井野川を挟んだ対岸にあり、両者が密接な関係にあることを示している。
飾履というのは、くつのような履き物で、装飾的意図の極めて強いものである。この飾履は金銅製で、内側に布のようなものをあてて履いていた。表面を見ると、適当な間隔をおいてビーズ玉が埋め込まれている。この玉は底の面にまで及んでいる。これを履いて歩くことは到底できない。 飾履は死者のための履き物であった。そのもとは同時期の朝鮮半島の王陵から出土する。日本における出土例は極めてわずか。谷ツ古墳の被葬者は、生前にこの飾履を苦労して手に入れ、これを履ける日を夢見ていたのであろうか。 |