古墳時代
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高坏形埴輪(たかつきがたはにわ)
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たかつきがたはにわ.
■時 代
5世紀前半〜中ごろ
■出土地
赤堀町茶臼山古墳
■寸 法
高さ37.5cm
■保管等
東京国立博物館
 首長の地位をシンボル化した椅子(いす)形埴輪の前に配置されていたことが推定されている。赤堀町茶臼山(あかぼりまちちゃうすやま)古墳の同じ墳頂部から発見された家形埴輪群に対しては、椅子形埴輪がこれと向かい合うようになることから、高坏形埴輪はちょうど両者の間に位置していたことになる。
 土師器(はじき)の高坏をまねたもので、同時期の集落跡などから出土する高坏に非常によく似たものがある。ただし、土器の方の大きさは高さ15cm内外で、だいぶ小さい。 高坏は食物を盛るための器である坏に脚が付いたもので、神前に代表されるように、圧倒的に高貴な地位の人に供えるためのものであった。実際、祭祀(さいし)儀礼が執り行われたと思われる遺構からは、必ずと言ってよいほど出土する器種である。首長をシンボル化した椅子の前に置かれたとする推定は、きわめて自然な解釈である。
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椅子形埴輪(いすがたはにわ)
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いすがたはにわ.
■時 代
5世紀前半〜中ごろ
■出土地
赤堀町茶臼山古墳
■寸 法
高さ45.4cm(残存高)
■保管等
東京国立博物館
 昭和4年に当時の帝室博物館(現在の東京国立博物館)によって発掘調査が行われた。古墳は、全長59mの帆立貝式古墳で、その墳頂部から家形・高坏形・甲胄(かちゅう)形埴輪などとともに出土した。その後の検討により、椅子は同様のものが2個分あったことがわかってきた。
 埴輪に表された椅子は、飾りの付いた豪華なものであり、単に一般人が座るためのものでなく、支配者である首長のためのものであったと思われる。座っている人はいないが、椅子そのものが首長の地位の絶対性を表していたものであろう。
 そこで、なぜ2脚あったかが問題になってくる。シャーマン的な性格を帯びた卑弥呼(ひみこ)と、それを補佐する男弟王(おとどおう)のごとき関係を想定するのも一案、また、首長権の継承儀礼を象徴化したものと考えるのも一案であろう。
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家形埴輪群(いえがたはにわぐん)
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■時 代
5世紀前半〜中ごろ
■出土地
赤堀町茶臼山古墳
■寸 法
高さ 54.0cm
■保管等
東京国立博物館
 赤堀茶臼山古墳の墳頂部からは、8棟の家形埴輪が出土している。その構成は、まず堅魚木(かつおぎ)をのせ、屋根の頂部に網代(あじろ)をかぶせた切妻式の最も大型の建物が一棟あり、主屋(おもや)と考えられている。次に、主屋と同じ構造で堅男木を欠く建物が二棟あり、副屋(ふくや)と考えられている。さらに、倉庫と考えられる高床式建物が、切妻式三棟、寄せ棟式一棟の四棟ある。残りの一棟は、最も小型の切り妻式の建物で納屋と推定されている。
  これらの家形埴輪群の配置は、すべての埴輪が本来の位置から出土したのでないため明らかではない。これまで多くの配置復元案があるが、主屋を正面に、二棟の副屋が前方左右に直交して配され、高床倉庫・納屋の付随的な建物が主要建物の背後にあったと考える点で共通している。
 そして、これら家形埴輪群総体により古墳時代の地域首長の居宅構造を表していたと考える点で、衆目の一致するところとなっている。
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石製模造品(せきせいもぞうひん)
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せきせいもぞうひん.
■時 代
5世紀後半
■出土地
前橋市舞台遺跡1号古墳
■寸 法
長さ13.5cm(下駄)
■保管等
文化庁
  前橋市の荒砥地区で、平成2年に舞台遺跡1号古墳(帆立貝式古墳、墳丘長四十二b)の調査によりまとまって出土した。その数は、勾玉(まがたま)1、鏃(やじり)5、下駄2、鎌2、手斧(ちょうな)2、斧8、有孔円盤15、刀子67、臼玉203点の多くにのぼっている。
 注目されるのは、これらの模造品が前方部に設けられた埋納のための特別な穴の中から出土した。しかも、どうやら長方形の容器に入れられて埋められたらしい。古墳におけるこの種の模造品の出土する位置は、遺体を納める埋葬施設からというのが一般的で、埋葬施設と関係なく墳丘上から出土したのはあまり例を知らない。
 なお、同じ穴の中から、鉄製の模造品(斧・鎌・刀子・やりがんな)も出土している。土中に埋められているから、ここに置くこと自体に積極的な意味があるわけではない。古墳の被葬者の葬送儀礼に伴って別の場所で使われた遺物が、使用後にこの場所に埋められたと考えるのが自然であろう。国指定重要文化財。
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須恵器把手付き※(すえきとってつきわん)
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すえきとってつきわん.
■時 代
5世紀後半
■出土地
渋川市空沢13・37号古墳
■寸 法
高さ7.1cm
■保管等
渋川市教育委員会
 須恵(すえ)器の生産技術は朝鮮半島、とりわけその南部にあたる伽耶(かや)の地域からもたらされた。それゆえ、初期のものには半島の色合いが強くのこっている。空沢(からさわ)古墳群から出土したこの須恵器もそのようなものの一つであり、近畿地方の窯で焼かれたものが当地に搬入されたものと考えられる。
 これ以上薄くできないといってもよいほどの薄い仕上がりで、細部の切れるようなシャープさが目立つ。中央部をぐるりとめぐる波状文は繊細でリズミカルである。しかも、黒味を帯びたねずみ色の色調は、堅い焼き上がりを伝えてくれる。
 5世紀代に属する須恵器は、半島からやってきた工人が直接その生産にたずさわったものや、その高度の技術をしっかりと受け継いだものであったため、いずれも出来栄えが良い。日ごろ土師器しか目にしたことのない当地の人々にとっては、とても人間のなせる仕業とは思えなかったのではなかろうか。※はつちへんに宛

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