古墳時代
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四獣鏡(しじゅうきょう)
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しじゅうきょう.
■時 代
4世紀前半
■出土地
富岡市北山茶臼山西古墳
■寸 法
直径9.7cm(四獣鏡)
■保管等
富岡市立美術館(四獣鏡)
  北山茶臼山西古墳のあった地は、高速道路が計画されるまでは、畑地として耕作されていた。ある日、耕作者が溝を掘ったところ、古墳の埋葬施設の一部に当たったらしく、一枚の小型銅鏡が転がりだした。そこで、家に持ち帰り、今日に至るまで大切に保管されてきた。
 採集された鏡は、四獣鏡という形式で、中国の鏡をまねて日本で作られた、ぼう製鏡(ぼうせいきょう)である。4つの獣が描かれているのは、鈕を取り巻く内区の部分である。均等に4カ所に配された乳(にゅう)に囲まれて4匹の龍を思わせる線描がある。毛虫のような像で龍にはほど遠い。その頭に当たる部分は、乳より小さい小突起で表されている。また龍に挟まれた空間には、手足を持つ別の獣が4つ配されており、胴の中心を乳で表している。これが具体的に何なのかはわからない。
  龍の文様もここまで変わり果てると、大もとの中国の龍とは別の代物になってしまう。当時の中国と日本の距離の隔たりを痛感する。
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狩猟文鏡(しゅりょうもんきょう)
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しゅりょうもんきょう.
■時 代
古墳時代前期
■出土地
高崎市
■寸 法
直径18.2cm
■保管等
東京国立博物館
  出土地については、高崎市八幡原(やわたばら)と倉賀野の二つの言い伝えがあるが、出土の経緯については明らかでない。
  鏡背は二重の同心円で内外区に分けられ、そこに動きをもった複数の人物・動物が配されている。内区には四人の人物が頭を鈕(ちゅう)に向けて放射状に置かれている。うち一人は両手を万歳するように掲げている。もう一人は土器のようなものを掲げている。残りの二人は右手に盾を持ち、左手で剣を振りかざしている。また、人物の間には、鹿と思われる動物が描かれている。狩猟文鏡と命名されたゆえんである。
  一方、外区には十人の人物がおり、万歳をする一人が中心に頭を向けている以外は、前述と同様盾と剣を持った人物が反時計回りに数珠つなぎになっている。
  中国・朝鮮の鏡にはまったく見られない形式であるから、日本独自のものとして間違いない。三角縁神獣鏡など、中国鏡に由来する鏡とは異なった位置づけ・使われ方をしたものと思われる。

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三角縁獣文帯四神四獣鏡(さんかくぶちじゅうもんたいししんしじゅうきょう)
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さんかくぶちじゅうもんたいししんしじゅうきょう.
■時 代
4世紀
■出土地
板倉町赤城塚古墳
■寸 法
直径22.8cm
■保管等
板倉町西丘神社
 延寶(えんぽう)5年(1677)、板倉町にある赤城神社が社殿修理のため境内にあった円墳を掘削したところ、中から鏡と鉄剣・直刀が出土したことが、境内にある碑文に記されている。
  発見された鏡は、三角縁神獣鏡の一種に属する四神四獣鏡で、四神の図像のうちの三体が仏像あるいはそれに近い表現になっている点が特異である。そのため三角縁仏獣鏡とも言われている。像を詳細に観察してみると、蓮華(れんげ)の台座の上に結跏趺坐(けっかふざ)して印を結ぶものが一体、台座は欠くが同様の姿をしたものが一体、蓮華を持つ菩薩(ぼさつ)風の立像が一体見える。
  中国には、三角縁神獣鏡がつくられた三国時代の前の後漢時代にすでに仏教が入ってきていたから、神像の代わりに仏像が描かれていたとしても不思議ではない。しかし、日本に仏教が入ってきたのは、6世紀の中ごろであるから、この時期の鏡に神像の代わりに仏像が表されていたとしても、そのことをどう理解しただろうか。県指定重要文化財。
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重圏文鏡(じゅうけんもんきょう)
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じゅうけんもんきょう.
■時 代
4世紀後半
■出土地
吉井町神保下條遺跡
■寸 法
直径6.1cm
■保管等
群馬県埋蔵文化財調査センター
  古墳時代前期の竪穴住居跡から出土した。
  文様が施される裏面の中心には、ひも通してつり下げるための紐(ちゅう)があり、その外側を三重に同心円文がめぐり、さらにその外側を、櫛(くし)歯状の文様がめぐる。この時期の鏡の文様としては、非常に簡素。シャープさにかける。
  当時、ヤマト政権は、中国から見事な出来栄えの鏡を入手し、政権に従う地域の首長に配布していた。数に限りがあるため、地域首長の下にいる中間支配者層には高嶺の花であった。そこで、中国製の鏡をまねた小型の鏡(*?製鏡=ぼうせいきょう)を製作し、地域の首長を通じて再配布したものと思われる。このような鏡を入手した神保下條(じんぼしもじょう)遺跡の家長は、この付近一帯に広がるムラの有力者であった。小型品とはいえ、本来は白銀色に輝くものだから、ムラ人から畏敬(いけい)の念をもって眺められたことであろう。※はにんべんに方
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須恵器直口壺(すえきちょっこうつぼ)
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すえきちょっこうつぼ.
■時 代
5世紀前半
■出土地
新里村峯岸遺跡
■寸 法
高さ17.1p
■保管等
新里村教育委員会
  1号古墳(円墳、径14.5m)の周堀内から多量の高坏(たかつき)、小型壺などの土師(はじ)器とともに出土した。墳丘上に置かれていたものが転落したと思われる。
  須恵器(すえき)の生産技術は五世紀初めに朝鮮半島から到来した。轆轤(ろくろ)を使って整形し、窖窯(あながま)により千度以上の高温で焼くため、高度の専門的技術を必要とした。
  そのため、最初のものは、西日本を中心にごく限られた地域のみに流通していた。峯岸遺跡の須恵(すえ)器もこれに近い時期のもので、群馬県で出土した須恵器としては最古に属している。この時期のものがあまりにも少ないことから、当地で生産されたものとは考えられない。おそらく近畿地方で生産されたものがもたらされたものと思われる。
  本来はものを入れるための容器だが、須恵器は貴重品として、さらには宝物として扱われた。持ち主は、近在の人々にきっと自慢げに見せたことであろう。

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