古墳時代
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古墳に見る毛野王国の力……明治大学教授 大塚 初重
埴輪に見る古代人の心

 群馬の古墳を語る際に埴輪を欠落させることはできない。それほど群馬は埴輪王国であり、日本における埴輪研究のメッカでもある。形象埴輪と呼ばれる人物や動物埴輪の作風がすぐれ、表情が豊かで古墳時代人の心情を表現しているようでもある。埴輪には円筒埴輪・朝顔形埴輸をはじめ、家・きぬがさ・椅子(いす)・高坏(たかつき)・盾(たて)・さしば・甲冑(かっちゅう)などの器財埴輪と人物動物埴輪など多種多様なものがある。

 家形埴輪は赤堀町茶臼山古墳の後円部上に据え置かれていた八棟が著名である。発掘者の後藤守一は丹念に復元し、この八棟の家が首長の屋敷を表現していると理解した。堅魚木(かつおぎ)をのせ、網代(あじろ)で葺いた切り妻構造の屋根をもつ大型の家は主人の居宅であり、その左右と背後に納屋や高床倉庫群が配置されている。五世紀代の毛野の首長の生活を彷彿(ほうふつ)とさせる資料として、全国的に著名な家形埴輪群である。藤岡市白石稲荷山古墳でも二例の竪穴式石室の上から八棟の家形埴輪群が発見されている。首長の来世の生活をおくる場として、また、霊魂の宿る神聖な場として用意されたのであろう。

 埴輪には馬・牛をはじめ鶏・水鳥・鹿・猪・犬・猿・魚・ムササピなどの動物埴輪がある。西暦五世紀後半ごろから馬型埴輪が登場する。群馬町保渡田Z遺跡や粕川村白藤古墳群から出土した馬は飾り馬が多く、くつわ鏡板・馬鐸(ばたく)、杏葉(ぎょうよう)、鐙(あぶみ)、鞍(くら)、障泥(あおり)まで表現した例がある。馬型埴輪の中には裸馬に人物が乗っている例がある。太田市赤城養護学校太田分校にある例は、人の乗馬姿の珍しい例である。古墳時代の馬の重要性は、中世以降とさして変わらぬものであった。

 乗馬ことに群馬・山梨・長野・静岡県に分布する鉄製轡(くつわ)の出土例は、全国的に見ても濃厚な出土分布を示していて、馬匹生産地であった可能性が高い。飾り立てた馬には一人ずつ馬曳(ひ)きがつく例もあり、葬儀に参列した権威の表示としての飾り馬群と考えられる。

 鶏の埴輪は古墳時代の初期から存在し、新しい時を告げるものとして、首長の葬送には重要な役割を担っていた。「天鳥船(あまのとりふね)」の説話にあるように、鳥は来世ヘの旅立ちの水先案内者でもあった。福岡県珍敷塚(めずらしづか)古墳の壁画のように船の舳先(へさき)にとまる鳥を見れば、古墳の墳頂部に置かれた鶏や水鳥の意義が理解できる。鹿や猪の埴輪もまた、死んだ首長の生前の生活と深いかかわりがあったものと思われる。

 境町剛志天神山古墳出土の犬と猪の埴輪は、前方部の基壇上から一緒に発見され、首輪をして舌を出している犬は猟犬、猪は穫物であったと思われ、狩猟場面の再現であろう。

 群馬町保渡田Z遺跡の埴輪群にはこの組み合わせに狩人が加わった状況がみとめられる。葬送の儀礼の中に、首長のありし日の生活が織り込まれていたことを物語るものである。太田市オクマン山古墳の鷹匠の埴輪もまた勇壮な野外での鷹狩りシーンの再現であったろう。

 埴輪の中で最も多様な姿態と表情を示すのが、人物埴輪である。全身を表した立身象から 半身像、祭祀(さいし)にかかわる巫女(みこ)、武装した男たち、琴を弾き太鼓をたたく楽人、笛を吹き四つ竹を鳴らす女たち、鍬(くわ)、鎌(かま)を持つ農夫。冠に威儀を正す首長とその妃、御食御酒(みけみき)をささげる女官、裸体で踊る女、誄(しのびごと)を言上(ごんじょう)している男、子供に乳を飲ませる母親など、人物埴輪の対象は広い。

 人物埴輪の中でも初期に登場するのは、祭儀の司祭にあたる巫女が中心である。帆立貝型をした太田市塚廻り四号古墳出土の巫女埴輪は、右手に大刀を持ち意須衣(おすひ)とよばれる袈裟状の襷(たすき)を肩から掛け、左脇(わき)の下になにやら四角い袋を下げている。三号墳の、椅子に腰掛けた左手に杯を持つ女性も、意須衣を右肩から左脇の下へ掛け、腰に幅広の帯をしめて左脇に六鈴鏡を下げている。これも祭式を執行する巫女であり、盾持ち男性の埴輪や大刀形埴輪とともに人物埴輪登場の意義が、葬送の儀式と深くかかわっていたと推察されるのである。

 群馬県の埴輪に全国的な関心が寄せられるようになったのは、昭和初期に福島武雄が調査した群馬町八幡塚古墳の埴輪群像の配列であった。百メートルの墳丘をめぐる周堀の中堤には、円筒埴輪列に囲まれた長方形の区画があり、その内側から数十体の人物・動物埴輪群が発掘されている。中央部分には相対する新旧の首長夫妻がいて、その周辺からはそばに仕える武人群や楽人、さらには内廷に仕える女性の埴輪群が並列して発見された。馬も馬飼人とともにあり、鶏・水鳥なども列を作って配列されていた。

 これらの多彩な人物・動物埴輪群の構成は、葬送の荘重・厳粛な祭儀の表現ではないかと思われる。八幡塚古墳の刳抜(くりぬき)形式の舟形石棺と石棺を包む石室に埋葬された人物は、三ツ寺T遺跡の豪族居館跡に関係した首長だったという考え方に立てば、この八幡塚古墳中堤の埴輪群像の構成は、葬送に関連した殯(もがり)か、あるいは水野正好が解釈したような首長権継承儀礼の再現かとする埴輪論の本質に迫ることがより一層確実となろう。

 太田市塚廻り三、四号墳のような帆立貝型古墳前方部への集中的な埴輪の配列、そして司祭としての職掌にあった男の司祭や巫女埴輪の配列から見ると、五世紀から六世紀前半にかけての群馬の埴輪は、古墳祭式つまり葬送儀礼のかなり忠実な再現であったと思われる。埴輪の樹立にあらわれた祭祀表現を、埴輪祭祀と呼ぶとすれば、今はなき首長の奥津城(おくつき)を、より神聖な場所と念じ、厳重に墓域を画することが第一の条件であった。従って墳丘にも周堀をめぐる中堤さらに時には外堤の縁辺にも埴輪が立てめぐらされた。仁徳陵とされる大山古墳には二万個以上の円筒埴輪がめぐると推定されている。太田市天神山古墳の場合には優にニ千個は下るまいと思う。

 埴輪祭祀について近年、畿内の五、六世紀の古墳、たとえば奈良県橿原市四条古墳・天理市小墓(こばか)古墳をはじめ誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳(応神陵)などから本製の葬具(きぬがさ・盾など)が人物・動物埴輪とともに出土し、その類例は増加している。このような事例から古墳の墳丘に立ち並ぶ埴輪群の意味が、かなり祭祀的な側面が濃厚だったように推測できる。高崎市観音山古墳での「三人童女」と呼ばれる巫女三人は背中に鏡を負うまさに葬祭の儀を執行中と見られる。男の司祭とされる帽子をかぶる人物は胸元で両手を合掌する。古墳時代の宗教行事に仏教以外に道教の流伝があったと考えてよいとすれは、人物埴輪が墓前でとるさまざまなホーズの中に、解釈が可能になる例もあろう。

 太鼓をたたき琴を弾く、両手に四つ竹で踊る男女、陽根をカ強く露出している男など、毛野の埴輪で、とくに人物埴輪の表現は多彩で技巧的でさえある。

 毛野の古墳文化の大きな特色が埴輪文化と呼んで差支えないほどすぐれた埴輪群の存在である。かつて埴輪は「素朴な土の芸術」とか「埴輪美」の名のもとに美術史的な観点から評価された。毛野の埴輪群が東国各地の埴輪の中で、もっとも技術的にも表現的にも一頭地を抜いているのは、毛野の古墳時代、社会が歴史的にも社会的にも強固な地域社会の秩序によって裏付けられていたからではないだろうか,太田市塚廻り古墳群や高崎市観音山古墳、さらには群馬町保渡田古墳群の人物・動物埴輪の存在感は大きく、東国他地域の形象埴輪群に比較して独自性が強く、埴輪工人の技術の継承が、したたかに行われていることが埴輪自体から読みとれる。

 毛野の埴輪を概観すると工人集団の違いによって、人物の表情などにも微妙な地域差がみとめられる。時代の推移とともに古墳における埴輪配列にも変化が表れる。墳丘の片側だけに人物・動物埴輪などが列をつくる配列が六世紀後半から一般化する。葬送の儀礼に関係することとして葬列の表現とする従来からの考え方をすべて否定はできない。埴輪も首長と地域社会の性格を表現して、多様な配列があったと考えるべきだと考えている。