古墳時代
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古墳に見る毛野王国の力……明治大学教授 大塚 初重
毛野における古墳の変化

 西暦六世紀に入るとまもなく、畿内では前方後円墳が姿を消す。横穴式石室の導入や葬送に関する伝統的な考え方が薄れ、新しい中国や朝鮮半島からの葬送のイデオロギーの流入によって、大型墳丘を必要とする前方後円墳の築造は消滅していったのであろう。しかし毛野においては井野川流域、とくに高崎市周辺では 前方後円墳の築造が続いた。毛野の独自性というかカの誇示であった。一九六七年から六八年にかけて発掘された高崎市観音山古墳は、六世紀後半の毛野の大首長が、大和王権側ときわめて密接な関係にあったことを示した。全長百メートルの墳丘には二重の周堀がめぐり、墳丘中段には人物埴輪群が立ち、後円部には西南方向に入り口が開く横穴式石室が発見された。全長一二・五メートルのこの石室は角閃石安山岩(かくせんせきあんざんがん)を用いた整美なもので、玄室の長さ八・二メートル、幅三・八メートル、高さ二・二メートルという県内最大規模の石室であった。また奥壁寄りの天井石は二五トンに達する牛伏砂岩(うしぶせさがん)を用いていたから、石の切り出しから運搬に至るまでに投入された労働量は、想像を絶するものであったと思われる。毛野の六世紀段階の古墳文化の実力は、畿内の古墳文化に匹敵するものであったと考えられる。

 観音山古墳の副葬品の中に銅製水瓶(すいびょう)がある。日本の古墳では唯一の出土例であるが、中国北斉(ほくせい)の鮮卑族(せんぴぞく)の貴人・庫狄回洛墓(こてきかいらくぼ)出土例との比較から、北斉から百済(くだら)へ百済から大和王権へ、さらに大和王権から毛野の観音山古墳被葬者へという歴史的な脈絡を辿(たど)れるのかもしれない。実はこの古墳の副葬品の中には、直径二三・三aの獣帯鏡が含まれているが、一九七一年に偶然に発見された韓国忠清南道公州市の武寧王陵(ぶねいおうりょう)から出土した獣帯鏡と同笵鏡(どうはんきょう)であることを確認している。

 すなわち観音山古墳の豊富な副葬品の中には、中国(北斉)と韓国(百済)、百済と倭(わ)の大和王権とを結ぶ古代東アジアの歴史的な関係の糸が結び合っているように思われる。さらに大和王権と毛野の首長との間にも緊密な政治的関係があったことは間違いない。観音山古墳の出土遺物の中には五□(ふり)の銀装刀子(とうす)や金銀で飾った頭椎大刀(かぶつちのたち)や銀象嵌(ぎんぞうがん)の竜文をもつ捩(ねじ)り環頭大刀(かんとうたち)をはじめ、奈良県藤ノ木古墳出土の馬具とも共通する特徴を示す馬具が出土していて、観音山古墳が東国でも超一級の内容を持つ古墳であることがわかる。

 観音山古噴に続く六世紀最終段階の高崎市観音塚古墳も毛野を代表する前方後円墳である。全長百五メートルの墳丘には長さ一五・三メートルの横穴式石室があり、画文帯神獣鏡(がもんたいしんじゅうきょう)をはじめ鏡四面のほか、承台付(うけだいつ)き銅鋺(どうわん)など鍍金(ときん)銅器、多量の馬具・武器・武具が出土している。このように畿内ではすでに前方後円墳の築造が停止している六世紀後半の群馬で、それも特に井野川流域に百メートル級の前方後円墳が存在することは、毛野の大きな社会的特色といってよい。

 観音山古墳の出土馬具の中には奈良県斑鳩(いかるが)町藤ノ木古墳の馬具とも共通する点がみとめられる。両古墳がほぼ六世紀後半という年代が与えられ、藤ノ木古墳が皇族を葬った可能性が高いことから考えると、毛野の観音山古墳の首長が百済王朝とも直接的にあるいは間接的な関係にあったと考えてよいかもしれない。異形甲(いけいかぶと)と称される幅広の鉄板を縦矧(たてはぎ)に鋲(びょう)留めした蒙古鉢型冑は、おそらく百済からの舶載品と考えられ、観音山古墳の首長が、身辺に中国・朝鮮とかかわりのある遺品を多く所持していたことは、毛野首長層の軍事・外交面における活躍の一端を示すものかもしれない。

 五世紀から六世紀にかけては、群馬町保渡田の薬師塚・八幡塚・二子山の三前方後円墳が注目される。三ツ寺T遺跡で発見された一辺が九十数メートルという堀をめぐらした方形首長居館跡の存在は、年代から考えて全長百メートル級の八幡塚古墳の被葬者の生前の居館跡の可能性がきわめて強い。また周辺の地域では同道(どうどう)遺跡をはじめとする、広大な古墳時代の水田跡も明らかにされているので、五世紀から六世紀におよぶ毛野の古墳時代の社会構造が、次第に解きほぐされつつあるといってよい。八幡塚古墳と関係がある箕郷町下芝谷(しもしばや)ツ古墳は積み石を伴った特異な方墳だが、ガラス玉で飾った金銅製飾履(しょくり)を出土している。古墳の特色から渡来系集団の有力者の墓ではないかと思う。

 高崎市剣崎長瀞(ながとろ)西遺跡一〇号古噴は、四角い形の積石塚であるが、金製垂飾付(きんせいすいしょくつ)き耳飾りや韓式系土器を出土したところから、特別な技術を身につけた、朝鮮半島からの渡来系の人びとの古墳のように思われる。おそらく窯業・馬匹生産をはじめ広い範囲の手工業生産に従事していたのではなかろうか。

 七世紀も後半を迎えると前橋市総社町の宝塔山(ほうとうざん)・蛇穴山(じゃけつざん)古墳、北群馬郡吉岡町の南下(みなみしも)古墳群のように方墳あるいは円墳に、截石(きりいし)造りの整った横穴式石室がとり入れられ、終末期の古墳文化を代表する。

 毛野の古墳文化は古墳が出現する三世紀末から、終末期古墳の七世紀にいたるまで、東国古墳文化の中核となっていた。鉄製武器・武具の出土量も東国最大であり、実用的な馬具の保有量も多い。埼玉県稲荷山古墳の鉄剣にある百十五文字の金象嵌銘文(ぞうがんめいぶん)が語るように、武装して王宮を守る兵士として畿内の大和王権に仕えるケースは、十分にありうることであった。そうした過程で前橋市山王金冠塚古墳例のような新羅系統の金銅冠や金鋼製大帯を所持する人物も輩出した。毛野の首長や兵士たちが、毛野の地域内に常にとどまっているという見方ではなく、五世紀以降、さまざまな国内の政治的動向と軍事的側面の必要性から、国内・国外への移動があったことは明らかである。毛野の古墳の内容は墳丘のみでなく、埴輪・石室構造・副葬品など多くの点で、毛野の動向を如実に語っていると思う。