古墳時代
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古墳に見る毛野王国の力……明治大学教授 大塚 初重

 一九三八(昭和十三)年に群馬県は『上毛古墳綜覧』を刊行した。これは県下に分布する大小の古墳の戸籍台帳にあたるものである。約八千五百基の古墳が登録され、それ以来『古墳王国』の名が全国的に広まった。

 古墳とは一つの地域に登場してきた政治的支配者、すなわち豪族とか有力な首長などとよばれる特定の人物の墳墓のことである。円墳や方墳が多いが、日本ではとりわけ円墳に四角い壇が接続した形の前方後円墳が重要視されている。近年、古墳時代を「前方後円墳の時代』とか「前方後円墳体制」と呼んで、前方後円墳の出現と発展に注目している。それは近畿地方を中心に成立した、大和王権の大王たちの墳墓が前方後円墳であったことに由来している。

 群馬県下においても各地で前方後円墳が出現し、有力な首長たちは中央の大王権力の墓制と同じ墓づくりをしていたことが明らかである。太田市にある天神山古墳は群馬県下最大の古墳であるばかりか、東日本最大の大型前方後円墳なのである。この天神山古墳の後円部には、凝灰岩製の長持型石棺の一部が顔を出している。伊勢崎市お富士山古噴でも同型式の石棺を見ることができる。西暦四、五世紀の大王陵と推定される大阪府の津堂城山(つどうしろやま)古墳、大山(だいせん)古墳とで、この長持型石棺が採用されているので、九州地方から南東北地方の五世紀ごろの各地の有力な首長たちは、好んでこの長持型石棺を用いたと思われる。それが単なる墓制の流行というより、長持型石棺がステイタスシンボルであったようである。

 前方部が極端に短く、昭和初期に箕郷町上芝古墳調査にかかわった柴田常恵が、帆立貝式古墳の名を付けた墳丘は五、六世紀代に出現する。これは太田市女体山古墳のように、巨大な天神山古墳に従属する位置関係にあり、五世紀代の首長層の中にも重層的な階層関係があったのかもしれない。

 関東地方の中でも群馬県の古墳文化の優位性は、四世紀代の前期古墳の中にもみとめられる。前橋八幡山古墳は全長百二十メートル、高崎元島名将軍塚古墳は九十メートルの前方後円墳であり、どちらかといえば被葬者はもとからこの毛野の地にいたと思われる。それに対して前橋天神山古墳は全長百二十九メートル、玉村下郷天神塚古墳は全長八十メートルという前方後円墳であり、先進的な中央の王権との関係の強弱・濃淡が、首長墳墓規模や形態にまで影響を及ぼしているのかもしれない。

 五世紀代には高崎市東部に大型古墳が出現する。倉賀野浅間山古墳は墳丘が百七十六メートル、倉賀野大鶴巻古墳が百二十四メートル、藤岡市では百四十メートルの白石稲荷山古墳、太田市周辺ではすでに指摘した天神山古墳など、毛野の各地に有力な大古墳が築造された。