縄文時代
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縄文から未来を見つめ直す

 しかし、思想するとはどういうことか。

 第一に、おのれの根元に還ること。そこに働いている宇宙の力、神を感じること。第二に、その根元と人間たち(民族と人類)の相互交感の創り出してきた生の連続、つまり歴史の意味を受け取り直すこと。第三に、人間たち(民族と人類)の、そして宇宙の、その双方のどんな未来が可能なのか、それを問うこと。

 悩ましい作業である。しかし、とくに二十世紀末の日本にあっては、ぜひとも必要な仕事である。高度に成長しすぎた文明(たとえば核エネルギーの軍事化や有毒ガスの排出などなど)によって、二十一世紀の地球人に死が訪れるのではないか。ますます進んでゆく国際化(別名文化の植民地化)によって、精神の無機物化(別名荒廃)が深まるのではないか。こういう危機感を克服するには、母胎から未来を見つめ直す、つまり縄文を思想することしか、道はない。

 日本文化は、外来文化の模倣だと見なされてきた。文字、仏教、儒教、自然科学などなど。精神の故郷は外国にあるとされてきた。その結果、二十世紀の詩人の第一人者、萩原朔太郎は、現代の日本人を「故郷喪失者」と呼び、「われの持たざるものは一切なり」と叫んだ。その声は聞くものの胸を抉(えぐ)った。しかし、その死後五十数年がたった。縄文が陽の目を浴びた。そこにこそ、真実の母胎があった。もはや日本人は「故郷所有者」となった。縄文は芸術された。縄文の与える感動の大きさは宇宙につながるものであり、縄文の神は愛の神であることが、次第に感じ取られてきている。したがって、もしも朔太郎が今も生きていたならば、「われの持たざるものは一切なり」の次に、「されど、縄文の愛の神、われを持つ」と歌ったのではなかろうか。

 縄文を、単なる自然科学の対象としての事物としてだけ、唯物論によってだけ、受けとめることを止めなければならぬ。日本人の魂の表現、芸術として受けとめねばならぬ。さらに、縄文を、そして縄文によって、思想しなければならぬ。

 弥生以来二千三百年の長い間、歴史の暗い地下層に埋没させられていた縄文は、やっといま甦ってこようとしている、日本全国のみなさんの魂の中に。それは、「妖怪」などであるわけがない。それこそが、みなさんのこれまで知らなかった日本人の真実の神、愛の神なのである。