縄文時代
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新縄文時代の幕開け

 一九九三年、青森市三内丸山遺跡発掘。直径一メートル、高さ六メートルの栗の大柱の建築遺物、五百人の竪穴住居跡、段ボール箱五万箱の土器・土偶の個体と破片、などなどが出土。古代都市の出現と騒ぎ立てられる。大新聞のバックアップによる『縄文まほろば博』が全国主要都市を巡回。NHKそのほかのTVが紹介、たちまち、それまでになかった縄文ブームがおこる。現地には子供も大人も修学旅行に押しよせる。

 一九九七年五月、鹿児島県国分市の上野原遺跡発掘。縄文早期前半(紀元前七千五百年前後)の地層から竪穴住居十三軒の跡、集石、連穴土坑、道路跡、壺形土器、耳飾り、土偶などの破片と個体の十万点などが出土。考古学者上村俊雄氏はいう。「上野原遺跡の縄文早期は、遺跡の広大さや、出土した多種多様な遺物の質・量のどれをとっても、他に類を見ない驚異的なものである。定住生活が営まれ、安定した社会が形成され、高度な精神文化が発達していたことを物語っている」(九七年六月三日毎日新聞夕刊)。

 さらに、同じく一九九七年九月、富山県小矢部市桜町遺跡発掘。九月四日毎日新聞は第一面のトップに「縄文中期に木組工法・法隆寺の三千年前、高床建物、柱など大量出土」と大見出しを付けて報道。建築士家・宮本長二郎氏は、「床面までの高さが約二メートル、全体の高さが六メートルと大規模なもので、祭殿の機能を持っていたのでは」と語る。

 三内丸山、上野原、桜町、この三遺跡からの発見は、いずれもこれまで未知であったことを告げてくれる。じつに貴重。

 なかでも重要なのが、桜町遺跡の高床。これは、いい直せば構造木造物。これまでそれは縄文にはないと思われていた。

 たとえば、北海道と青森の間の遠距離の津軽海峡を自由に往復していたに違いない縄文人。その舟は、どんなものか。これまで発見されている二十隻ほどのものはすべて、全長六メートル前後の刳(く)り舟。四人乗りほどのカヌーである。

 構造船はないのか。いいや、必ずあるはずである。そう信じさせる存在がある。それが、縄文の土器・土偶その他の土製品である。

 わかりやすい例をあげる。中期新潟県出土の火焔式土器。炎えさかる焔、怒り狂う波、同時にその双方を思わせる造形が口縁をめぐって屹立(きつりつ)している。自由、暢達(ちょうたつ)、柔軟、激烈。だが、それを支配する運動は、ある一定の法則を持っている。不変の力学をもっている。
 そのために、次のことが可能となる。

 縄文の世の中には、ルネッサンスのイタリアのように、ダヴィンチやミケランジェロに劣らぬ巨匠がいて、アトリエをもつ。筋のいい男女の若者が集まる。巨匠が教え指導して、火焔式土器をつくる。その力学は不変だから、みんなで複数製作ができる。あるいは、複数製作ができるように、力学を貫く法則を一つにする。その結果、新潟県全域から現在までに出土した火焔式土器は二百点を超え、様式と性格を同じくし、しかもすべて共通の迫力をもつ。

 ただし、重要なことが、これより前にある。何から、力学を学ぶのか、法則を抽き出すか。それは、大自然から、なのである。

 その経緯は、ほぼ四千年前と思われる古代中国の文字の誕生の場合と似ている。

 地球が始まって以来の川が流れている。それを、みんなに伝わる記号にしたい。長い時間にわたって多くの人々が考え込む。ふっと、考えが閃く。縦の一本棒を描く。よろしい。だが、物足りない。そこで右左に二つ、一本棒を描き加える。やっと水のボリュームが出現する。何という大自然感受の見事さ。

 しかし、さらに驚くべきことが待ち設けている。川の文字の下に横一本棒、一、これをおく。これは、地平線、または水平線。するとたちまち、山、これが立ち上がる。奇跡である。地球創世期の記憶の復活ではなかろうか。

 こういう作業を、具体抽象と呼ぶ。そしてその結果を、川とか山とかの文字を、機能相同体(ホモロギヤ)と名付ける。

 ここで、話を縄文に移す。その土器は大自然の具体抽象による機能相同体である。その土偶は、祖先の魂の具体抽象による機能相同体である。いずれも、対象の表面ではなく、本体を表現する。写生などという表面だけの描写ではない。

 しかし、なぜ、そういうことをするのか。

次のことがその理由である。