縄文時代
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縄文とは何か

 縄文とは、何か。
 自然科学の力によってわかっている一つの事実がある。

 南は沖縄諸島から北は北海道までの日本列島の各地で、紀元前一万年から紀元前三百年まで、同じ一つの民族によって、同じ雰囲気をもつ土器と土偶そのほかの粘土製品が焼かれ続けた。その時代が縄文時代、その民族が縄文人と呼ばれる。ここでは、その両者をあわせて、縄文と呼ぶことがある。

 縄文人は、狩猟漁撈(ぎょろう)採集の生活。自然の恵みをそのままいただき分配しての暮らし。搾取と被搾取がない。貨幣経済がない。文字という精神流通の媒体を持たない。原始共産制の自然人、そして、粘土で造形する芸術人。

 この縄文人が、日本原住民である。ほかにはいない。その精神が、日本の母胎である。ほかにはない。そのことを、よく心得ていなければならない。

 紀元前数百年、幾つもの海のルートを通って、中国大陸から数多くの渡来人がやってくる。これが、弥生人。稲作をおこなう。鍬(くわ)や鋤(すき)や刀をつくる。医学や薬学を心得ている。すなわち、文明人。

 自然人(そして芸術人)のところへ、文明人がやってくれば、どうなるか。白人が渡来してきて以来五百年の南北両アメリカ大陸の歴史が教えてくれている。文明人が征服し、支配する。

 紀元前三百年から紀元後三百年までが、弥生時代。紀元後三百年から紀元後七百年までが古墳時代。この一千年間での弥生人およびその系列の大陸からの渡来人の総数は、百万人(自然人類学者・埴原和郎氏の説)。この略称して弥生系の人々が、当時の、そしてそれ以来の日本の主導権を握って今日に至る。そして、縄文人と弥生人の混血が今日の日本人である(同じく埴原氏の説)。

 ここに、大切なことがある。
 縄文人の出自は、東南アジアである。温暖な自然である。その自然をつくり自然を動かす基本の力、すなわち神は何であるか。愛の神である。

 弥生人の出自は、北アジアである。寒冷な自然である。その自然をつくり自然を動かす基本の力、すなわち神は何であるか。知の神である。

 両者は、同じ黄色人種であっても神を異にする。神を異にする部族を異民族という(外見や生活の違いが問題なのではない)。したがって、現代日本人は、異民族の混和したものである。しばらく前まで唱えられていた純粋民族説は今日では否定されている。

 さらに、もう一つ大切なことがある。
 弥生時代が始まってから二十世紀半ばの一九四五年の日本の敗戦の日に至るまで、縄文の土器土偶その他の芸術作品は、どういう扱いを受けたであろうか。

 徹底して無視され、黙殺された。
 日本には、美の天才たちがたくさん現れた。万葉集、古今集、新古今集などの歌人たち。宗因、芭蕉、蕪村などの俳人たち。紫式部以下の小説家たち。琳派その他の美術家たち。明治以降の岡倉天心、和辻哲郎、小林秀雄などの評論家たち、しかし、縄文芸術のなかの一点くらいは見ただろうに、誰一人、一言も語らなかった。呆れるほかはない。

 だが、これはなぜであろうか。
 美の天才たちがことごとく哀れにも支配権力の強い意識操作を受けていたからである。
 柳田国男は、まったく見事な言葉を残している。
「妖怪とは、後代の神によって征服された前代の神およびその眷属(けんぞく)である」。

 縄文の神、ひいてはその表現である縄文芸術は、後代の神、弥生の神によって、妖怪とされたのである。のちの世の人々もいっせいに、卑しんで目もくれなかったのである。

明治十年、米人モースが東京の大森貝塚を発掘して調査結果を公(おおやけ)にした。縄文に自然科学の光が当てられた最初である。これが刺激となって、東京大学、続いて京都大学その他の大学で考古学の研究がおこなわれ始めた。しだいに縄文の発掘と調査が日本各地に広がった。

 やがて昭和。縄文考古学は進んできた。しかし、十五年戦争が進むとともに、マルクス主義とともに、縄文学は国禁となった。小学校から大学までのどんな日本歴史の時間においても、縄文のことは一言も語られなかった。皇国史観を根底から脅かす恐れが大きかったからである。十五年戦争においての日本人の戦死者総数、二百三十万人。そのすべての人々が、自分たちの精神の母胎である縄文について、何一つ知ることなしに昇天した。

 昭和二十年八月十五日、日本国敗戦。新しい平和憲法発布。デモクラシーの大合唱。昭和二十二年より小学中学高校の教科書に、それまでのベールがはがれて、縄文が登場。しかし、日本国民の誰もが、何の驚愕も感激も覚えなかった。未開社会の野蛮人扱いだったからである。「縄文人、ああチンパンジーの従兄弟か」。

 教科書に文章を書いたのは、むろん西欧のではなく、日本の考古学者であった。かれらは、第一に自然科学者であることを念じた。その方法は実証主義であり、その思想は唯物論であった。ただし、西欧の学問の素朴な引き移しであるにすぎなかった。そのため、ひたすら縄文を単純に物としてしか扱わなかった。

 自分たちが唯物論者であるのは、本人の勝手である。だが、研究の相手である縄文人をも、直ちに自分たちと同じ唯物論者と見なした。したがって、「貝塚、ああそれはゴミ捨て場だよ」と速断した。それが祭祀の場、一種のピラミッドである可能性を思い見ることをしなかった。つまり思想しなかった。

 縄文人の製作した土器土偶その他の作品、それは直ちに実用品であると決めつけた。祭器の可能性のあることを考えなかった。そこで、千葉県のある博物館では、すべての土器が食べものの盛りつけ用と煮炊き用の二つだけに分類されて展示された。神へ捧げる祭器とは、人間の祈りの造形、つまりは芸術品ということである。日本の考古学者は、それを心で受け取らなかった。事物を事物としてしか受けとめなかった。つまり、芸術しなかった。

 そのため、進化して人間になる前の動物としてしか、縄文人を見なかった。ひどいものである。差別である。
 しかし、一九五二年、この日本に新しい縄文人が現れた。かれは芸術した。画家岡本太郎である。
「こんなに激烈に非日常の凄(すさ)まじい芸術がなんとあろうか。世界に類を見ない。われわれの現代芸術ははるかに超えられてしまっている」。

 口を極めて絶賛した。多くの人々が、やっと注目した。はじめて感動した。
 十八歳から十数年間の西欧画壇での前衛、八〇%フランス人の国際人、「芸術は爆発だ」と唱える芸術家の捉われない目と心によって、やっと縄文の土器・土偶その他の作品は、「芸術の市民権」を得た。

 以来、四十数年の歳月が流れる。ほとんど一手に縄文の作品を売っている大きな古美術店主は語っている。
「はあ? どんなお客さんが買うかですって? はい、十人のうちの五人がアメリカ人です。残りの五人が日本人。そのなかの四人が前衛芸術家です。そして一人が古美術愛好家。日本画の先生がたは、どなたも関心がないようですな」。

 縄文芸術のファンの半数が、外国人。みなさん、驚きになるのであろうか。それとも・・・。
 ここまでが、しかし、いわば縄文の前史である。一九九〇年代から、いわば縄文の現代が始まるのである。