飛鳥・奈良・平安時代
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心を求める古代の世界……京都大学名誉教授 上田 正昭

神と仏への祈り

 上野国の古代寺院の数は六十一カ所におよんで、関東では屈指の仏教国であったことがうかがわれる。東国巡錫の最澄(伝教大師)と鬼石(おにし)町の浄法寺の道忠との関係もそうした仏教文化を背景とする。上野国分寺は前橋市の元総社町と群馬町東国分にあった。上野国府の西北に位置し、塔跡・金堂跡などが残っている。『続日本紀』には、天平勝宝元年(七四九)五月、碓氷郡の石上部君諸弟(いそのかみべのきみもろおと)らが国分寺に「知識の物」を献じて叙位されたことを記載する。伽藍の整備に在地の有力氏族の寄進のあったことがわかる。国分尼寺は金堂跡の東四百bばかりの位置にあったと推定されているが、国分寺や尼寺は、平将門の争乱や治承四年(一一八○)九月の足利太郎俊綱らによる上野国府の炎上で兵火をうけたと伝えられている。

 古代群馬の寺々では、法会などのおりには、伎楽(ぎがく)などが奏されていた。それは『上野国交替実録帳』に法林寺・弘輪寺・金光明寺に「呉楽器」のあったことを記載しているのにもみいだされる。

 延長五年(九二七)に完成した『延喜式』には、上野国の式内社として、片岡郡一座・甘楽郡二座・群馬郡三座・勢多郡一座・山田郡二座・那波郡二座・佐位郡一座、あわせて十二座(大三座・小九座)の神々の鎮座を明記する。これらの古社については尾崎喜左雄著の『上野国神名帳の研究』(尾崎喜左雄著書刊行会、一九七四年)、同著『上野国の信仰と文化』(同刊行会、一九七○年)に詳述されているが、在地の神々とヤマト系・渡来系の神々との信仰の重層がおりなす、古代群馬の人びとの畏れと祈りの世界が、山の神、里の神の杜によみがえってくる。

 奈良時代から平安時代へ。奈良時代の文化は世に天平文化とよばれている。それは聖武天皇の代の年号・天平、孝謙天皇、淳仁天皇の代の年号・天平感宝、天平宝字、称徳天皇の代の年号・天平神護などにちなんでのことだが、その内実は必ずしも天平ではなかった。藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)の乱、橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)の変、恵美押勝(えみのおしかつ=藤原仲麻呂)の乱、道鏡の変などをかえりみても、その実相が浮かびあがってくる。

 平安京という命名は、延暦十三年(七九四)十一月八日の記にも、はっきりと「平安京」とあって、長岡京から都が遷されたそのおりからの首都名であった。しかし、平安時代の約四百年間が「平安楽土」の時代であったわけではない。平将門の乱、藤原純友(ふじわらのすみとも)の乱、さらに治承・寿永の乱などというように、政争と争乱の渦まくなかの平安時代であった。

 非天平・非平安の時代背景のなかで、古代の群馬を生きた氏族と民衆のくらしが展開されたのである。飛鳥時代から平安時代におよぶ群馬の歴史と文化の歴程のなかに、古代群馬の独自性と普遍性を再発見することが、ローカルでしかもグローバルな、まさにグローカルな地域の再評価につながる。縄文時代以来の群馬。上毛野国から上野国への展開。人びとのくらしのいとなみを舞台とした文化遺産が、いまの群馬を照射するのである。