飛鳥・奈良・平安時代
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心を求める古代の世界……京都大学名誉教授 上田 正昭

伽藍と三碑

 七世紀の中葉ともなれば、群馬の各地に寺院が建立されるようになる。七世紀代の寺院跡の代表的な例としては、前橋市の山王(さんのう)廃寺、伊勢崎市の上植木(かみうえき)廃寺、太田市の寺井廃寺、吾妻町の金井廃寺などがある。なかでもひときわ注目されるのは山王廃寺であった。

 その造営地は八世紀初頭までつづく総社(そうじゃ)古墳群の近くに位置し、上野(こうずけ)国府・国分寺・国分尼寺に近接する。この寺は上毛野氏らによって建立されたと想定されているが、中心部には東に一辺一四bの塔基壇、西に東西一六・六b、南北一一・七b以上の金堂基壇がならぶ。そしてその北方に礎石のある建物と掘立柱(ほったてばしら)の建物があった。石製鴟尾(しび)一対・根巻石(ねまきいし)・陶製の水瓶・*・皿・塑像頭部など注目すべきものが多い。*土へんに腕のつくり

 しかも塔基壇と金堂基壇の間から、「放光寺」というヘラ書きのある瓦や「方光」の押印のある瓦が出土している。山王廃寺の瓦については、安中(あんなか)市の秋間地区で製作されたものが使われていたようだが、本格的な伽藍配置を示すこの山王廃寺が放光寺であることが明らかになったことは重要である。

 なぜならば上野三碑のひとつである高崎市の山ノ上碑に「放光寺僧」と明記されているからである。山ノ上碑は「辛巳歳(天武天皇十年、六八一)集月(十月)三日記す」からはじまる日本で最も確実な最古の墓碑的石碑として貴重だが、少なくとも天武天皇十年(六八一)のころまでには放光寺に僧が居住していたことは、この碑文によってもたしかめられる。そして問題の放光寺が山王廃寺であったことが、「放光寺」のヘラ書き瓦などで傍証された。

 九世紀前期に近いころに山王廃寺の中心部の整備がなされた痕跡があり、有力な壇越(だんおち=施主)をもつ定額寺(じょうがくじ)であった可能性が指摘されている。長元三年(一○三○)に上野国の介である藤原家業(いえなり)が藤原良任(よしとう)と交替するさいの不与解由状(ふよげゆじょう)草案(いわゆる『上野国交替実録帳』)には、放光寺について「件(くだん)の寺、氏人の申請により定額寺と為(な)さず、よって除き放つことすでに了りぬ」と記されており、そのころには衰微していたと考えられる。

 山ノ上碑の「新川臣児斯多々弥足尼(にいかわのおみのこしたたみすくね)」などの人名表記は、埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の辛亥(四七一)銘鉄剣の「其児多加利足尼(そのこたかりすくね)」などの書法と類似する、いわゆる史部(ふひとべ)流の書き方であった。そしてこの碑文は「放光寺」の僧であった「長利僧」が「母の為に記し定むる文」であった。墓碑の要素のあるこの碑文が放光寺の僧によって書きとどめられているのも、群馬における仏教文化のありようを象徴する。吉井町の多胡(たご)碑には「和銅四年(七一一)三月九日甲寅」とあって、八世紀はじめの貴重な建郡に関する碑文であり、渡来系の「羊」なる人物が登場し、あわせて「石上尊(いそのかみのみこと)」(石上麻呂)・「藤原尊(ふじわらのみこと)」(藤原不比等)の名がみえるのも興味深い。

 高崎市の金井沢碑は「神亀三年(七二六)丙寅二月廿九日」の建碑であり、「七世父母、現在父母の為に、知識(ちしき)を結びて、天地に誓願し仕え奉る石文」であった。まさに入信表明の碑文といえよう。この碑文にも「み仏」への帰依のひろがりが投影されている。

 栃木県那須郡の那須国造碑は、永昌元年(六八九)という唐の年号ではじまる那須国造であった那須直韋提(なすのあたえいで)の墓碑だが、そこには則天文字(則天武后が文字改革を行う)も用いられていた。上毛野氏らは早くから朝鮮半島とのかかわりをもっていたが(「朝鮮派遣氏族の動向」、『日本古代国家論究』所収、塙書房、一九六八年などで論究した)、渡来系の人びともまた上野・下野の地域に居住していた。(『日本書紀』の推古天皇九年九月の条、持統称制元年三月の条など)。したがって、上野三碑や那須国造碑にみられるような文字文化が結実するのである。