飛鳥・奈良・平安時代
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心を求める古代の世界……京都大学名誉教授 上田 正昭

古墳から寺院へ

 いわゆる公伝年よりも前に、仏教関係の文物が古墳から出土している。たとえば、京都府園部町の垣内(かいと)古墳や奈良県広陵町の新山(しんやま)古墳(ともに四世紀後半)には、仏獣鏡が副葬されており、さらに長野県の御猿堂古墳出土の鏡にも仏体をかたどるものや、岡山県の王墓山古墳出土の絵文様縁仏獣鏡などがある。仏像や仏具などが伝来したことを仏教伝来のメルクマールとするなら、こうした仏獣鏡の出土も軽視するわけにはいかない。

 仏像や仏具などの伝来よりも、仏教の伝来を特徴づけるのは、仏教の教えを伝授する僧尼の渡来であった。『日本書紀』によると、五四八年のころには、百済から道深らの僧が渡来していたことがたしかめられ、私があえて戊午年(五三八)であると主張する理由もそこにある。

 ところで公伝年は、あくまでも百済の王朝と倭国の朝廷との間における、いわば支配者相互の関係にかんする年次であって、大和に所在する倭国の朝廷への仏教伝来にさきだって、たとえば朝鮮半島に近い北九州や日本海沿岸地帯に、仏教が伝わっていた可能性はきわめて高い。福岡県の霊仙寺や大分県の満月寺の開基伝承がいわゆる公伝年よりも古く、対馬の上県(かみあがた)町の佐須(さす)で興安二年(四五三)銘のある北魏仏が発見されたり、大江匡房の『対馬貢銀記』に欽明朝のこととする比丘尼(びくに)の渡来を(『維摩会縁起(ゆいまええんぎ)』や『元亨釈書(げんこうしゃくしょ)』は百済の法均尼とする)、書きとどめているのも偶然とはいえない。仏教の伝来は公伝年の一回かぎりではなかった。それ以前、そしてそれ以後にも、仏教伝来の波は繰り返したのである。そうした視点に立って、古墳から寺院へのプロセスを考察する必要がある。

 飛鳥時代は古墳時代の後期でもあった。群馬の古墳文化のなかにも、仏教文化のプロローグが反映されている。飛鳥文化の光華は仏教ばかりではなかった。道教の文化も流伝し、百済楽(くだらがく)や新羅楽(しらぎがく)など、渡来の芸能や文字の活用をはじめとするあらたな才技が飛鳥文化を多彩にいろどっていく。

 群馬の飛鳥文化には、注目すべき動向がうかがわれる。その代表的な例のひとつに、高崎市の観音山古墳出土の銅製水瓶がある。六世紀後半の築造とみなされる観音山古墳出土のこの水瓶は、東魏・北斉を中心とする中国北朝にそのルーツを求める説がある。水瓶として著名なものには、たとえば、法隆寺献納宝物のなかの八口(はちふり)などがある。日本におけるこの種の水瓶の多くは寺院の伝世品であり、法隆寺の百済観音などの持物にも用いられている。確実な古墳出土の水瓶はこの観音山古墳が唯一といってよい。水瓶がもともと仏具として用いられたものなのか、道教ゆかりの金丹術具であったのか。そこには検討すべき課題を残すが、この水瓶が観音山古墳の被葬者とかかわりをもつ副葬品であったことはまちがいない。

 観音山古墳から十キロあたりの場所に築造されている高崎市の観音塚古墳は、六世紀末葉とみなす説が有力だが、銅鋺、銅製托杯(たくはい)各二点が出土している。韓国の武寧王陵の王妃木棺内から銅托銀杯がみつかっているが、その器形は観音塚出土の銅製托杯と酷似する。

 かねがね注意してきたのは、観音塚から出土した光背形杏葉(こうはいがたぎょうよう 四点)である。杏葉は馬面の部分と胸の部分、そして尻の部分との革紐(面繋=おもがい・胸繋・尻繋)に懸垂される装飾用の馬具だが、この杏葉はハート形の金銅板に波状の透かしを入れてホ具(かこ)がつけられている。この透かしの文様は、仏像の光背の透かしの文様の影響と考えられる。高崎市上滝町の古墳から出土したという金銅製の馬鐸(ばたく 四個)はふつうの馬鐸とは異なっており、寺院の塔などにつるした小型の風鐸と類似する。風鐸タイプの馬鐸といってよい。小型の風鐸を馬鐸に転用したのではないかとする説もある。

 いまは古墳時代後期の群馬の古墳から出土した若干の例をあげたにすぎない。が、仏教あるいは道教につながる遺物が六世紀後半の時期から群馬の地域に登場する背景を軽視するわけにはいかない。

 飛鳥時代の仏師として著名な人物に、鞍作鳥(くらつくりのとり=止利)がいる。鳥仏師の祖父は司馬達等(しばのたちと)であったが、『元興寺縁起』に「按師首(くらのつかさのおびと)達等」、『扶桑略記』に「案部村主(くらつくりすぐり)司馬達止」と書かれているように、司馬達等は馬具を製作した集団のリーダーであった。鳥仏師自身が「司馬鞍首止利仏師造」と法隆寺の釈迦三尊造像銘に記している。つまり、馬具の製作者集団が、その技術を仏像をつくる技術にうけつぎ活かしていくのである。

 そのように考えるなら、杏葉に仏像の光背透しが転用されたり、あるいは風鐸と同類の馬鐸が使用されたりする事情も明らかになってこよう。観音山古墳出土の玉子形水瓶などの文物が、いわゆる大和飛鳥を経由して、群馬の古墳に導入されたと速断するわけにはいかない。むしろ、日本海ルートで北陸あたりから、上毛野の首長層のもとに受容されたケースを想定するほうが説得力をもつ。

 古墳時代の後期は飛鳥時代でもあった。したがって、たとえば崇峻天皇三年(五九○)のころから、その造営が本格化した飛鳥寺の心礎から、挂甲(けいこう)・金鐶・馬鈴・金銅打出(こんどううちだし)金具・蛇行状(だこうじょう)鉄器・刀子(とうす)など、後期古墳の副葬品と同様のものが埋納されているのも、古墳と寺院の関係を象徴する。そして古墳から寺院へのコースが具体化していくのである。