飛鳥・奈良・平安時代
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心を求める古代の世界……京都大学名誉教授 上田 正昭

仏教文化の受容

 飛鳥時代とは推古期を中心とする前後のおよそ百年間、すなわち六世紀の後半から七世紀前半の時代を指す。この時代名は奈良県高市郡明日香村の地域、つまり、大和飛鳥(やまとあすか)に主として当時の宮処(みやこ=都)があったのにもとづいて称されてきたわけだが、いわゆる大和飛鳥のみに飛鳥時代の文化が花を咲かせたのではない。

 たとえば、奈良県斑鳩(いかるが)の藤ノ木(ミササキ)には六世紀後半のあの豪華な副葬品が出土した藤ノ木古墳があり、また、厩戸皇子(うまやどのみこ=聖徳太子)が居住した斑鳩宮(いかるがのみや)、その発願(ほつがん)による斑鳩寺(いかるがでら=のちの法隆寺)が存在する。そして古代の難波(なにわ)、大阪市天王寺区には聖徳太子が建立した四天王寺が難波の空にそびえていた。大阪府の羽曳野(はびきの)市飛鳥のあたりから、柏原(かしわら)市国分(こくぶ)にかけての地域には、かつて指摘したように(朝日新聞一九七一年六月一日)、河内(かわち)飛鳥の文化が結実していた。

 京都市右京区太秦(うずまさ)の広隆寺に、国宝第一号の飛鳥時代の宝冠思惟弥勒(ほうかんしゆいみろく)像がいまもまつられていることは、多くの人びとに知られているが、その由来は秦河勝(はたのかわかつ)が葛野秦寺(かどのはたでら)を造営したのにはじまる。京都の葛野にも飛鳥文化のたしかな開花があった。

 われわれは日本の歴史や文化を、とかく都があったいわゆる「中央」を重視して、「中央」からの視点で、「中央」を中心として各地域の歴史と文化を放射線状に位置づけて考えやすい。上毛野・上野の歴史と文化についても同様である。群馬には群馬の飛鳥文化の時代があり、そしてそれはつぎの七世紀後半の白鳳(はくほう)時代にうけつがれていく。

 飛鳥文化の特色といえば、仏教文化のみを想起する。それはまぎれもない史実だが、その場合に少なくとも三つの点を留意しておく必要がある。そのひとつは、百済の聖明王(せいめいおう=聖王)から倭国(わこく)の朝廷に仏教が公伝した年次にかかわる問題であり、その第二はいわゆる公伝年以前と以後の仏教伝来のありようである。そして第三は、飛鳥文化の特色を仏教文化のみで論じてよいのかという状況である。

 仏教の公伝については『上宮聖徳法王帝説(しょうきゅうしょうとくほうおうていせつ)』や『元興寺縁起(がんごうじえんぎ)』などが記す戊午年(五三八)説と『日本書紀』などが述べる壬申年(五五二)説とがあって、現在では戊午年説が有力となっている。しかし、この両説にはなお検討すべき余地がある。まず、なぜこのような仏教公伝のちがいが生じたのかという疑問を解決しなければならない。その点に関しては別に論究したので、ここでは詳述しないが(「仏教の伝来とその受容」『古代伝承史の研究』所収、塙書房、一九九一年)、そうした年次のちがいは、聖明王の即位年を起点とする伝承のずれによるものであった。『三国遺事(さんごくいじ)』の百済王暦では、聖明王の即位年を五一三年とし「同」の治世年数にもとずく即位年は五二七年になる。

 聖明王の即位年を五一三年として起算されたのが戊午年(五三八)説であり、その即位年を五二七年として換算されたのが壬申年(五五二)説であることがわかる。ところが、聖明王の即位年を五二三年とする『三国史記(さんごくしき)』の伝文が正しいことは、韓国忠清南道公州宋山里の武寧王陵から出土した買地券石によって明らかになった。この五二三年を起点とした『日本書紀』の百済系関係史料から推定できる戌辰年(五四八)説の方がより妥当であったことが判明してきた。

 そればかりではない。五三八年説の『元興寺縁起』では、「太子像ならびに灌仏の器一具及び説仏起書巻一篋」が贈られてきたと記し、五五二年説の『日本書紀』では「釈迦仏の金銅像一躯・幡蓋若干・経論若干巻を献る」と述べる。両書の伝来物の内容がちがっていることもみのがせないが、いまもし仏像や仏具などの伝来をもって、公伝年とするなら、それ以前の仏獣鏡などの出土品をどううけとめるかを改めて問わなければならないからである。