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高崎競馬場(たかさきけいばじょう)遺跡【コンベンション施設整備事業】

平成28年6月
「本遺跡は上野國高崎市高崎競馬場観覧席上に存在し、現在は全く煙滅(えんめつ)してしまった。」
高崎市岩神町に所在する高崎競馬場遺跡紹介文の1行目です。出典は杉原荘介・乙益重隆「高崎市附近の弥生式遺跡」『考古學』第十巻第十号 昭和十四年九月 東京考古學會です。巻末に定價(ていか)六十銭、送料一銭と書いてあります。最初の土器発見は大正12~13年頃と言われております。この一文により、高崎競馬場遺跡の名前は学史に刻まれたと言えます。しかし、高崎競馬場遺跡の実態は、なかなかわかりませんでした。
現在、群馬県のコンベンション施設整備事業の一環として、遺跡の整理作業が実施されています。この遺跡からは、弥生時代中期の環濠(かんごう)が確認されています(写真1)。環濠とは集落の周りに掘られた溝のことで、人や獣類などが外から進入するのを防ぐためのものと考えられています。中期の環濠集落の発見例は県内では他に清里・庚申塚(きよさと・こうしんづか)遺跡(前橋市)など数例しかなく、この発見は、高崎競馬場遺跡の名前をさらに広めることになるでしょう。環濠は、ちょうど観覧席を囲むように楕円形にめぐっていると考えられます。従って、この内側に当時の住居群が存在していたと考えられますが、観覧席があるために、環濠内部の発掘調査は一部のみでした。しかし環濠の南内側で、弥生時代中期の掘立柱建物跡が確認されました。弥生時代中期の掘立柱建物跡はとても珍しいものです。
さらに環濠の中からは膨大な量の土器が出土し、その中に太型蛤刃石斧(ふとがたはまぐりばせきふ)(写真2)4点と共に、抉入柱状片刃石斧(えぐりいりちゅうじょうかたばせきふ)(写真3)が確認されました。太型蛤刃石斧は伐採具で、抉入柱状片刃石斧は工作具です、どちらも大陸系磨製石斧とも呼ばれ、大陸、朝鮮半島に起源を持ち、弥生時代に稲作技術と共に日本に伝わったと考えられています。抉入柱状片刃石斧は、群馬県で初めての出土です。両石斧は木製の柄にしばり付けて使っていたと考えられます。このほかにも農耕を証明する炭化した籾殻(もみがら)も出土しました(写真4)。
かつて、競馬場建設で工事の際偶然見つかった土器から、今、新たなコンベンション施設整備事業による発掘調査をへて、2千年前の弥生時代の環濠集落を、目の当たりにすることができたわけです。一度は『煙滅』した高崎競馬場遺跡は、90年以上の年を経て再びよみがえり、学史に新たな歴史を刻んだ瞬間でした。
写真1 環濠の南辺 南から
写真2 太型蛤刃石斧
写真3 抉入柱状片刃石斧
写真4 70号土坑出土土器と土器内から発見された籾殻(もみがら)が入った土塊